双葉学院 天美教室(あまみきょうしつ)

つれづれの想い

《計算力》と《読解力》

 生きるために必要な基礎能力には《計算力》と《読解力》があります。これらは訓練によってかなり向上する能力です。しかしながらスーパーの出現が、買い物から会話をなくしたように、レジ機械の発達やバーコードの開発、そして近ごろではスマホで決済。というように買い物から計算を省いてしまいました。つまり日常生活の中で計算力の試練の場が少なくなったわけです。
 普段から訓練出来ないものだから、計算というと身構えてしまいます。スマホの電卓をだして計算、、あるいはペーパーに書いて眉間にシワをよせて計算となってしまいます。しかし身についた計算力は絶対です。計算は普段着のままなのです。しかも、おおよその数をつかむとか、出てきた数の経路がわかる、照合力があることなども計算力の一部です。機械文明の便利さに奪われつつある計算力は、生きるための要素として向上していきます。
 また、人々は自分の意志を伝え、他の人の気持ちを知るために言葉を持ちました。それを遠くへ伝えたり、後に残すために文字をつくり、文字を連ねて文にすることを知りました。詩や和歌や漢詩などの文を読んで、内容を正確に理解し、さらには文に感動する感性を大切にしてきました。
 計算して、数を自在に操作するのと同じようにこれもまた偉大な文化です。ところが現在私たちの周りで、この文化が衰退していくように感じるのが残念でなりませんでした。しかし近年では、基礎能力の計算力は、やはり《読み・書き・そろばん》が一番だと言われるまで回復してきました。
 映像時代、ゲーム時代といわれる子どもたちに、自分の考えを言葉にして伝え、人の言葉を正しく受け止める子どもが少なくなり、読んで文章を理解し出来る子どもが極端に減ってきているのがとても心配です。このような現実の中で、英語が教科となります。日本語をおろそかにしてまでも学校教育として実施する必要があるのでしょうか?疑問視ばかりです。 30分でも子どもと一緒に本を読んだり、話をしたりする時間を持つ方が大切だと思うのですが。親たちもゲームばかりしていないで。

【背中で引つ張る】

 何年前だったでしょうか。夏の高校野球の決勝戦を前に、ラジオのゲストで出演したある有名高校の監督がこんな話をしていました。「私は毎朝5時半にグランドヘ行きます。草むしりとか石ころひろい、グランドならしが私の仕事です。選手のケガが心配ですから・・・。いや誰もきてませんよ。でも選手たちはちゃんと見てるんですね。2月1日に選抜からはずれた知らせを受けてがっくりきてたんですが、その翌日が入学試験だったんです。夜にかなりの雪が積もったので受験生か滑ったら危ないと思い、校門前の雪かきをしていたんですが、ふと見ると30人ぐらいの白い集団がかけ足でやってきます。こいつら選抜にもれてしょげかえっていたのに・・・。
うれしかったですね。監督が選手に直接教えることなんてほんの少ししかありません。選手を背中で引っ張るのが監督だと思っています。
 《背中で引つ張る》なんとすてきな表現でしょう。監督と選手だから、その間にあるのが野球というひとつごとですら知識や技術だけでなく、生きるための大いなるものを伝えられるのかも知れません。それにしてもたった3年間引っ張ってくれた監督の背中を、卒業してからも見続けているのに感銘を受けました。
 ひょっとしたら、親が子に伝えるべき生き方にもそれがいえると思います。ずっと以前故 永六輔さんがある雑誌に載せた“江戸職人語録”に、「子どもってのは親のいう通りに育つもんじゃない。親のする通りに育つもんだよ」というのがありました。監督の言葉と見事に一致しますね。
 ややもすると、成績を上げるために親はいろんな手を打ちます。「勉強しなさい」というのも、塾へ行かせるのもその一つですが、学校の成績というのは、監督のいう “ほんの少しのもの”でしかありません。勉強さえしていればいい、というのは、子どもたちに親の背中が見えなくなってしまうと思います。
 お父さん・お母さん、どうか子どもに背中を見せてください。そして生きるという大きなことを背中で伝えてやってください。

《やるべきことを見定める》 【聞く耳を持つ】

 昔から「実るほど頭の下がる稲穂かな」という格言がありますが、ひとかどの人物になろうとすればするほど自らは謙虚に振る舞い、他の意見にも耳をそばだてなければならないのに、世間は往々にしてそうではなく、自分の実力を過信してその考えを絶対視し、他に押し付ける人をたびたび見かけます。確かにそれが理にかなっていれば他の人は従わざるを得ませんが、もし、そうでなかったとしたらなんと傲慢不遜なことでしょう。
 世の中には私たちの知らないことがいくらでもあり、それに比べて私たちがすでに知っていることなどはたかが知れています。毎日、見聞きするものの中には今まで自分が知らなかったことが数多く秘められており、それを知ったときの喜びはたとえようもありません。そのことが良きにつけ悪しきにつけ「世の中にはこんなこともあるのか」と教えられ、自分の視野を広めてくれます。未知との遭遇によって私たちの人生がどれほど知恵が磨かれ、リッチになるかも知れません。
 私たちの人生において「もうこれでいい」ということはなく、一生涯が勉強の連続だと思います。
 勉強するとは、難しいことですが、自ら勉め、自ら励むことを自分に強いることですが、グータラな人間にとっては、前述のようなことは尚更必要です。ところが若い時から怠け癖がついて、授業や講義をサボつたり、出席しても居眠りしたり、隣の人とつまらない私語を交わしたりする人を見かけますが、いったい何のために学校や学習塾へ行っているのか疑わしくなります。自ら【聞く耳を】をふさいでおいて「おもしろくない」「つまらない」とか「むなしい」と嘆いているとしたら、《勝手にしろ》と言いたくもなります。学ぶ人たち、皆さんには、そんなことを言っているヒマはないはずです。
 みなさあ?ん!【聞く耳・聞く意識】を持たないと、これから先が大変ですよ。

〔子育ち〕と〔子育て〕の間

 私は、〔子育ち〕と〔子育て〕という2つのテーマで学生にレポートを書いてもらいました。〔子育ち〕は子どもの立場から親に育てられてきた自分がどのような思いで育ってきたのかを、一方〔子育て〕は、親の立場から親が子どもをどのように育ててきたのかを書いてもらうのです。
 このレポートを読んで気づいたことは、子どもの思いと親の思いとの間には深い溝があるということです。つまり、〔子育ち〕と〔子育て〕の間には溝かあるのです。
 例えば、親が子どもの将来のことを考えて厳しく躾(しつけ)ようとしている場合がありますが、この場合、子どもは、なぜ厳しくされているのかがわからず、親の躾(しつけ)には反発を感じている場合が多いのです。例えば、次のようなレポートがありました。父親は日曜大工が好きで、よく大工道具を出してものを作っていました。自分はそれを近くで見ていて、つい手を出して、けがをしてしまい父親に叩かれました。その時の思いを、学生は次のように書いています。「確かに手を出しだのは良くなかった。しかしなにも叩かなくてもいいのに。失敗したら今度はどこに気をつければいいのかわかるのに。もっと日頃から自分にもさせてほしかった」と。そしてこの学生は、「自分が親になったら、子どもにも手伝わせてあげたい」と『自分の子育て論』を書いています。
 親は我が子に託す思いが強いのでどうしても親の考えを押しつけ、子どもを自分に一体化させがちです。子育てをするときには、まず子どもを独立した一人の人間であることを認めることが大切ではないでしょうか。乳幼児期の子どもでもすでに自分の感じ方、考え方を持っています。あるいは、感じ方、考え方を形成しつつある過程だといった方がいいかも知れません。乳幼児期から、子どもと接するときには 「この子にはこの子なりの思いがある」という気持ちで接する必要があります。我が子であっても自分と同じ人間ではないのです。子どもは自分というものをもった別の人格なのです。つまり、「親子でも別の人間である。」ということを親は理解する必要があります。
 子どもが何をどのように感じ、何をどのように考えているか、良く知ることが大事です。そして、親としても思いを子どもに伝えていくのです。
 子離れ出来ない親・親離れ出来ない子どもも少しは少なくなるのでは?

逃避・挫折を認めず《忍耐力》を

 「良い子ども」の条件とは何でしょうか? 学校やそろばん、塾などで成績が良いことだけではありません。あいさつはもちろん礼儀作法を身につけること、思いやりを持つことなども含まれると思います。そろばん・しゅうじを通して技術だけでなくすべてを教育できたらなぁと考えておりますが、欲張りすぎているためか、今の状況では時間が足りません。そろばん・しゅうじの指導に関しては、100%まかせていただいて結構ですが、より良い効果を上げるためには『集中力の持続』『忍耐力』『素直さ』『真面目さ』などを身につけることが先決だと思います。
 そろばんに限らず、何をするにあたっても前記の基本的条件は絶対に必要です。ところが時として、これらの養成に逆行するとしか思えない判断をされる方がおられます。多くのことを習わせ過ぎるご家庭。大人ですらたった一つのことに秀でることが難しいのに‥‥・。『集中力』が散漫になるだけで、すべてが中途半端になってしまうことが危惧されますし心配です。
 過保護に育て、何にでも子どもの言いなりのご家庭。何をやっても子どもだけでなく、大人でさえも《壁》というものにぶち当たります。これを突破、打破しない限り成長はありません。このときに子どもたちの大部分がイヤになり逃避しようとします。これを励まし納得させ、我慢させることにより 《忍耐力》がつくものです。この最も大切なチャンス逃避を認めてしまうことはマイナスではないでしょうか。それは 〔挫折〕 をすすめていることになります。
 目先の結果にこだわらず、大局的見地から物事を判断することを忘れてはならないと思います。基本的解決をしようとせず 「逃避」 によって目先の解決をはかることは、最悪の選択だと思います。子ども本人の性格を矯正?の絶好のチャンスを逃しているといってもいいでしょう。
 真に子どものためを思うならば絶対に避けるべきだと思います。

=問題との対決=

人間は誰しもラクをしたいと思っている、と以前に書きました。これは人間の本能とも言えると思います。でも「本当にラクをして生きられるか?」と聞くと、誰もが「NO」というでしょう。
 生きるためには、「活きる」ことが必要だからです。つまり《活動する》ことです。私たちは毎日が=問題==の連続の中で生きています。そして=問題=に直面し、それを直視するとき、大変な苦痛を感じます。どうしてその苦しみから逃れたい気持ちが出てきます。しかも=問題=にラクなものはありません。
 避けたい、逃れたいは人情ですが?、自分の成長を願うなら逃避しないことです。この経験を一つ一つ乗り越え、解決の努力を惜しまずにするならば、いつしかどんな変化にも対応していくことができ、そして誰よりも自分自身が充実した人生を実感することになると思います。しかし、これは言うのは簡単ですが、なかなか難しくて出来ないようで、途中であきらめてしまう人のほうが多いですね。
 ただ、問題が起きていないのにあきらめてしまう人がいます。それが残念でなりません。「中学生になるので・・・」 「塾に行くかもわからないので・・・」 はっきり言います。どうかこんなことのないように一度ぶつかって見て、結論を出してほしいと思います。ひょっとすると自分にあった、自分なりの解決方法が見つかるかもわかりません。
 根気、忍耐力のいることですが、自分自身でがんばって努力を続けることを忘れないでほしいと思います。続き続けるということの難しさをわかってください。
 まず、何事も続けることを前提において、これから起きる問題と対決して見てはどうでしょうか?
 先生は応援します。後は君たち一人一人の努力、がんばり次第ですよ。そして培った努力、がんばりは必ず、あなたたちの将来の糧、そして宝になります。

【けじめのある生活を】

 自分が「これこそは」と最善をつくしてやったことは、たとえその結果が思わしくなかったとしても、悔いは残らないものです。残してはいけません。
 ところが、いい加減な気持ちでやったことは、たとえば手を抜いてごまかしたりすると、その結果が良くても何か心にしこりが残り、すっきりしないと思います。しかし、近年、結果さえ良ければ何でもいいという人が増えてきている感じがします。とても寂しいことだと思いませんか?
 私たちは何事をするにも、そのことをし始めるときには一生懸命になり、どうにか成し遂げますが、その後に、成し遂げたものについての反省をあまりしないようです。
 日本に伝わる古武道の奥義として《気合・殺気・残心》が挙げられますが、試合をするにあたっては気合を入れ、殺気立つくらいに真剣に相手に立ち向かい、終わったならば勝敗にかかわらず、その勝負から何を学びとるかという反省があって始めて試合をした意味と価値がわかるというものです。
 たとえば、戸・障子を閉めるにも、自分が開けた戸をきちんと閉めないで外出するのはだらしがないものです。第一に不用心デス。
 世の中には、自分の部屋を散らかしても後片付けができない人。人の世話を受け、親切にされても礼も言えず、恩返しもできない人。物を売っても売りっぱなしでアフターケアできない人。人の話を聞いても聞きっぱなしで頭に残らない入‥‥がいるようです。こうした、やりっ放しの人間は、きつい言い方で失礼かと思いますが、おそらくなにをやらせてもずぼらで、生まれっぱなし、勉強しっぱなし、仕事しっぱなし、子どもを産みっぱなしで無為に終わってしまうのではないでしょうか。
 私自身も、もっともっとめりはりをつけて、今以上に、けじめのある生活習慣を心掛けなければならないと思っています。                      

【本質的なものを選びとる】

 本の芽や花のつぼみもふくらむ春になると、美しい花を咲かせるには、不用の枝を切る剪定(せんてい)が大切になってきます。
 私たちも同様に、いろいろな知識や技術を学びとるには、初めに基本となるべきものをしっかりと身に付けなければなりません。将来、基本となりいちばんに役立つ《読み・書き・そろばん》をしっかり習得して少しでもできるだけ早く身につけてほしいと思います。それを怠り、やたら他のことに?気をとられすぎると大事なものをつぶしてしまうような気もします。(特に近年の子どもたちを見ていると)何か一つのことに上達するには、その基本となるものをみっちりたたき込み、徐々に応用へと間口を広げるべきだと思います。
 ふだん、皆さんがやるべき学校での勉強、またそろばん教室でのそろばんでも要点をなおざりにして他に気をとられすぎている人を見かけます。その場でやるべきことをやらず、言うべきことを言わないで、やってもやらなくても良いことや、言っても言わなくてもよいことに精を出し、あとでムダなことをしていた、とベソをかく子も多くなってきています。
 何事においても絶えず「やるべきか、やらざるべきか、やるとなったら何をやるべきか」の選択に迫られています。そうした選択に的確に対処するには何か要点であるかを見極める明細な目や決断力、そして強い意志が必要です。
 それには、まず、他に目移りしないで、要点に心を凝(こ)らすべき知恵を培(つちか)うべきであると思います。
 非常に難しいことであると思われますが、子どもだけでなく、現代の大人たちにもいえることだと思います。

ゲーム脳について
のめりこみに注意しましょう!!

★ 現代 ゲームがスマートホン(スマホ)で出来る時代となり 子どもたちの脳は、更に危険な状態に陥っています。
 10年以上も前から《ゲーム脳》について警告をされている学者がおられますが子どもたちだけでなく、今や親を含め、大人たちさえ、ゲームから足を洗う(発言に語弊が)どころか益々盛んになっている傾向があります。
 親子の格闘で親が子どもに支配された感じに思えてなりません。本当に親が子どもの将来を案じるなら、今一度 子どもと真剣に向き合っていただきたい。
★大脳の最善部に位置して 人間の個性を決める場所とも言われている前頭前野が、ゲームのやり過ぎにより未発達となり損傷するという《ゲーム脳》になっている子どもたちが増加しているようです。
 先日 市内でも配布されているタウン誌に 東北大学・川島隆太先生の『あなおそろしや すまほ』 と題するエッセイが掲載されていました。
 内容を抜粋して お知らせしますと 【(前略)‥‥電車に並んで座っている親子連れ、親はスマホに夢中。景色を見飽きた子どもが話しかけても 親はスマホの画面をにらみつけたまま。
おしゃれなレストランのテラスでデート中のカップル、料理が冷めるのも気にせず、お互いに見つめ合いもせず、下を向いてスマホに夢中。大切な時間が目の前で溶けてなくなっていくことに、何故気づかない!
仙台市の小・中学生全員を調査したところ、スマホを1時間使うごとに、4教科合計で約20点テストの成績が下がることがわかった。
解析をすると睡眠時間や勉強時間とは関連性がない。3年間の追跡調査の結果、スマホを使ったことによって脳の中の記憶が消えたとの結論に達した。
家で2時間以上も勉強する頑張る子どもたちが、スマホを3時間触ったばかりにあまり勉強しない子どもより成績が悪くなる。努力が水の泡になってしまう。
スマホを手放せない人の脳は、薬物中毒の患者と同じ活動パターンを示すらしい。
考える力(思考力)がどんどん低下しているとの指摘も教育関係者から良く聞こえてくる。 
スマホは人々に怠惰(たいだ)と享楽を与えることを放棄させ、支配を容易にする。
やっぱり薬物と一緒か。でも、いったいゲームで誰が得をするのだろう。・‥(後略)】
      のめりこみに注意しましょう!!

【育てたい《学び心》&《考える力》】

  「他の人より一つでも多くの知識を詰め込んだものが勝つ世界・・・」
 ある高校三年生か自分の中学・高校時代を振り返っての学校感ですが、何とも心が寒くなるような言葉ではないでしょうか。
 そして、大学受験を無事終え、大学生になった現在「今まで必死で闘って(勉強して)きて、詰め込みの足らない者(人)を心の中で蔑(さげす)んできたような勉強が嘘(うそ)の勉強だったように思う」と目覚め、さらに「大学では、人と人との繋(つな)がりを育み、自分を高めながらも周りも高めるような学問をしたい。」と前向きな心情を表しています。
 詰め込みだけに終始してきた勉強と、自分で考え自分を高めようとする学問とでは大変な違いがあると思いませんか!! 詰め込んだ知識の量だけで推し量れるほど、人間は単純ではないと思います。
 テストや入試のためのものが勉強であり、生きるためのものが学問であり、いわゆる勉強によってみにつくのが知識であり、学問によって備わってくるの知恵ではないでしょうか。
 偏差値という化け物が横行し、点数というモンスターに振り回されている今の子どもたちに、本当の≪学び心≫&《考える力》を持ちなさいというのが酷かも知れませんが、絶対にゆるがせにすべきものではないと思います。
 子どもたちの《学び心≫は、教科学習の中からだけで育つものではなく、むしろそれ以外の家庭生活や、地域の異年令集団生活の中や、遊びの中でこそ身についてくるものではないでしょうか。
 時には、知識を詰め込む《勉強》から少し離れて、考える力をつける《勉強》、そして知恵をつけるための《学問》を大人と一緒にするのも大切なことだと思います。
 今からでも遅くはありません。子どもたちの【学ぶ心】を引き出してあげ、そしてその【学ぶ心】を大きく育ててあげたいものですね。
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