双葉学院 天美教室(あまみきょうしつ)

つれづれの想い

【そろぱん学習は 子どもたちにとって 素晴らしい栄養源】

 ソロバン学習を初めて最初は「入門」「初級」からスタートします。当然初めてソロバンという器具を使って弾(はじ)く子どもたちに負担がかからないように問題も工夫して作問してあります。そして少しづつ高度な内容になっていきます。この「入門」「初級」が理解出来たところで簡単な珠算式暗算(あんざん)に入り、そして×算(乗算)・÷算(除算)と進んでいくのですが、8級あたりから総合練習といって×算・÷算・見取算・見取暗算に入り、タイム計りになるときもあります。この頃から子どもたちは、今までの基本練習と違って集中して練習に取り組む姿勢が見えてきます。さらに7級に合格し、6級に入りますと、×あんざん(暗算)、÷あんざん(暗算)が入ってきます。5級・4級にも合格し、3級練習に入りますと伝票算種目が入ってきて、合計7種目となり、集中度はますます増してきます。
 検定試験前になりますと、×算・÷算は10分間、見取算・伝票算は8分間、暗算3種目は4分間と制限タイムを設定して練習に入ります。子どもたちは少しでも良い点数を取ろうと必死で珠(たま)を弾(はじ)いています。教室の中は、珠を弾く《パチパチ》といった音と、私の声しか聞こえてきません。これが上級のクラスになりますと《パチパチ》からリズムの良い音《サラサラサー》に代わり、珠を弾いている音を聞いているだけでスピードの違いがはっきりわかります。
 私のそろばん・しゅうじ教室では学校のように授業参観というものをやっていませんので、子どもたちの真剣な姿をお見せすることが出来ませんが、でもいつでも教室の見学に来ていただいて結構です。上記のように総合練習に入っている子どもたちは真剣に問題を追って珠を弾いています。ですから同じ学年でも合格級によってかなり集中力に差があります。「ヨーイ始め・やめて」数分間の緊張を繰り返し繰り返し、その中からいつのまにか集中力、そして持続力が身についていき、記憶力・計算力をつけ、自信や速断力を養い、行動力をつけ、無限の才能を発揮してくれます。いわばソロバンは子どもたちにとってビタミン剤であり栄養源なのです。ですからあらゆる学習分野のなかでソロバンに勝る学習はないと断言しても、決して過言ではありません。よく頭の固くなった大人が電卓を引き合いに出したり、K式教室との比較したりする人がおられますが第2の脳といわれる【指】を使い【脳】を使って学習するソロバンはその比ではありません。【指】を使い【脳】を使って学習するものは、超アナログではありますが、
 子どもたちにとって絶対的に価値のある〔ソロバン〕以外にないと思っています。

●●●【競争化】●●●

 「競うことは好ましくない」と言う人がいます。本当にこのましくないことなのでしようか?
 人類の歴史は、根底に競争があります。戦争はもちろんのこと、文化の発展も文明の利器の発明も多くは競争原理により生まれたものです。
 競争には、良い部分と悪い部分があるというのは事実ですが、好むと好まざるとにかかわらず、競争を避けて通ることはできないのです。
 避けて通れないのであれば、なるべく上手に利用するしかありません。競争の持つ良い部分に着目し、活用することが得策なはずです。
 競争の結果、勝者と敗者が生まれます。多くの勝ちと多くの負けを体験し、喜びや悲しみを味わうことが人間性を豊かにします。
 社会に出れば、多くの競争に出くわします。子どものころから競争体験に慣れていれば上手く対処出来ますが、不足したまま社会に出ると悲惨なことになります。
 異常といっていいぐらい盛り上がりをする高校野球には全国で数千校がし出場しますが、負けない高校は甲子園での優勝チームだけで、それ以外の学校は必ず負けを経験します。負けた後に、号泣する選手たちの涙は感動を誘います。試合の勝敗だけでなく、練習の苦しさやチームメ一トとの思い出など様々なことが脳裏をよぎるのでしょう。負けることがそんなに悔しいなら、最初から挑戦しなければいいのに、というのはお門違いです。負けることも財産なのです。負ける体験は人を強くします。敗戦を次へのエネルギーに変えて成長していかなければなりません。卑屈にならない程度の敗戦は大いに経験するべきだと思います。
 競争を肯定する理由は色々ありますが、ライバルが存在することにより、大きな成果を発揮することもその一つです。ライバル同士が互いに切磋琢磨することにより相乗効果が生まれます。
 そろばんの練習でも、実力の少し上の人と一緒に練習すると、計算スピードも上がり計算数も増えるというのは上級者の人には経験されていると思います。
 競争というのはやり方により毒にも薬にもなります。毒の部分しか見えていない人は競争を否定するし、毒だからだといって大量接種すると逆効果になります。いつも勝ちばかり、逆にいつも負けばかりというのは競争とは言わないでしょう。教育的効果もないでしょう。指導者は、勝ち負けが特定の人間に偏らないように配慮すべきだと思います。ただしジャンケンや抽選などによる公平化は競争ではないし教育とは別問題だと思います。
 最後に、一般的に、競争を肯定する人は目に見える学習効果をあげるのに対し、競争を否定する人は目に見えない部分の学習効果を協調する傾向があると思われます。

先天的素質と後天的努力

「努力」できることが人間に与えられる究極の「才能」であると、先月書きましたが、物事には、努力によって解決できるものと、どんなに努力してもどうにもならないものがあります。本当に腹立たしいことですが!
 人間としての根幹をなす部分は、どうにもならないものです。即ち、生まれる時代や、生まれる地域、環境、男女の性別などといったところには、選択の余地もなく、本人の意思とはまったく関係のないところで決定されます。最も近年は性転換?手術などで性を変えることもできるようですが、例外というるでしょう。
 これらは得たものではなく、与えられたものです。さらに言えば、人間として生まれてくるかどうかすら選択することも出来ません。こうした先天的資質は、いかなる努力を持ってしても変えようがありません。
 人智の及ばないことは、それを受け入れるしかありません。好むと好まざるとにかかわらず、前提となっているのです。すべてを受け入れたところで、物事を考えるスタート地点に立つことが出来ます。
 人間は平等といいますが、先天的資質においては不平等です。私は、物質に恵まれた人をついつい羨ましく思い、そのたびに現実に引き戻されます。
 人間の同じ数だけ、それぞれのドラマがあります。それがソロバンとは直接関係のないものであっても、参考になる部分は多少あります。
 先天的資質ですべてが決まってしまうほど、人生は単純なものではないはずです。運もあれば、それをつかむかどうかのタイミングもあります。種々の要素が複雑に絡み合っているのです。
 人生の前半に頭角を表す人もいれば、晩年になってから花開く人もいます。同時にソロバンを習い始め、同じように教えても上達には差がつきます。お叱りを受けるかもわかりませんが、これもまた、当然のことです。小学生のうちに抜群の成績で、将来を嘱望されながら、尻すぼみになる場合もあれば、中学生以降に突然、人が変わったように伸びる場合もあります。ある時点の優劣だけで判断することが正しいとは限らないと思います。それぞれの個性に応じた指導をし、子どもにとってプラスになることをどれくらい、優先させられるかなのだと思います。
 保護者の皆様もおわかりだと思いますが、子どもの教育って本当に難しいことですが、基本的にコツコツと努力し続けるということを教えていきたい、そしてわかってほしいと思って指導していますので、ご協力をお願いいたします。

●●●●●これが原点かな?●●●

 「天才とは1パーセントのひらめきと99パーセントの努力からなる」と言ったのは科学者エジソンでした。
 ある素晴らしい才能の種を持って生まれることは確かにあると思います。しかし、成長後にそれを活かせる分野に携わるかどうかはわかりませんし、難しいことかもわかりません。
 例えば、いつかはオリンピックの水泳で金メダルを狙えるような存在能力を持っていたとしても、それに気づかず、学校のプールの授業で満足して終わるかも知れません。もっと極端な話になりますが、生を受けた国に紛争が続き、学問やスポーツどころか日々の生活や命を守ることで精一杯ということも、近年の諸外国ではあり得ます。更に、自分というものが一体、何に向かっているのかを知るために、世の中にある全てのものを試すことは不可能です。結局、人というのは偶然の出会いや与えられた環境の中で選択したことに持てるエネルギーを注ぎながら、その道を進んで行くのではないでしょうか。
 日常、私たちは安易に「努力」という言葉を使いますが、この文章を考えながら、「努力」という意味を辞書で調べてみました。《ある目的を達成するために途中で休んだり、怠(なま)けたりせず、持てる能力のすべてを傾けること》(三省堂/新明和国語辞典より)とありました。これは大変に困難なことではないでしょうか。実のところ「努力」出来ることが人間に与えられた究極の「才能」ではないでしょうか。 努力=才能といっても過言ではありません。
 その分野を極める手段は、最終的に「努力」のほかならないのです。
エジソンの格言に戻れば、その意味が納得出来る気がします。

目標に向かつてトレーニングを重ね。一歩ずつ進むのが見える
そろばん学習。コツコツ努力することをお子様に気づかせて、
持っている才能を出来るだけ開花ウせて大きく育てたい・・・・・
                       それが私の願いです。
あらゆることに通じる才能とは「努力です」


【日本の教育の荒廃】

 現代の日本は、総じて大人も子どもも退化しているような気がします。実際に退化しているでしょう。十年少し前に《ゆとり教育》という名のもとに、学習内容は疑問視されながら大幅に削減されました。その結果、子どもの能力が《ゆとり教育》施行以前よりも、大幅に低下しているという結果が出ました。
 大学全入時代になり、以前に『分数のできない大学生』という本が反響を呼び近年では、かけ算九九の唱えられない中学生、高校生も珍しくはありません。
 公教育の多くは一斉授業そして画一教育がほとんどであり、義務教育には留年制度もありません。勉強がわからなくも毎年学年が上がり、より高度な内容を学習することになりますが、子どもにとって本当にこれほどかわいそうなことはありません。理解出来ない、わからない授業をだまって聞くことは、苦痛以外の何ものでもないでしょう。
 個性を尊重する、などと体裁(ていさい)の良い言葉が隠れ蓑になり、強制する教育は、すべて間違いであるかのような昨今です。子どもサイドに立つ物分かりの良い教師(友達感覚の教師)が人気を博しているような学校現場ですが、別の考え方も知っておかなければなりません。
 学校という現場は、子どもたちが社会に出るための準備期間であり、厳しい教育や訓練の場ではないでしょうか。子どもたちが発展途上であるが故に、一般社会以上に多くの規律が絶対に必要なのです。子どもたちは指導を受ける側であり大人である親や教師とは違う立場にあるということを教えなければなりません。時と場合によりけりと思いますが、理屈抜きで大人と子どもの違いを知らしめることは、これからの時代には必要であり、実際に大きな教育効果があると思います。
 少子化で親の目が行き届き過ぎ、面倒を見過ぎる?ことが、子どもだちから自立心を奪い、依頼心を強くさせているのではないでしょうか。親、教師への依存心ばかりで、自学力・自考力(考える力)を養っていないから、昔よりはるかに多くの割合で子どもたちが学習塾に通っていながら、学力低下が甚だしいのは当然ではないでしょうか。
 きつい言葉ですが、大人も子どもも、知識を受け入れる器が整っていないのですから。

【浮いていませんか?】

 感じの良い人と悪い人がいます。人それぞれ価値観や好みが違い、多面性をもっているのですから、一部の人たちから不評を買うのは仕方がないことかも知れません。万人から支持されることを目指すにこした事はありませんが、現実には不可能に近いと思われます。しかし、多くの人から評価が総じて良くないというのは大いに問題です。欠席裁判というと聞こえが悪いのですが、本人のいないところで特定の人の話題になることがよくあります。そんなときに、多くの人から良く言われないのは可哀想なきがしますが、やはり本人に原因かおるのではないでしょうか。
 では、どんな人間が好ましくおもわれないのでしょうか。
先ずは、《場の空気が読めない人》です。TPOをわきまえた態度、行動、発言を意識しない無神経さは禁物です。若い世代になるほどその割合は増えているようなきがします。
 《自己主張》が強く、無理に全休を自分の思い通りの方向に引っ張ろうとする人には周囲が嫌な思いをします。自己主張が強いのは、性格的ににわがままか、自信過剰のどちらかではないでしょうか。あるいは、極度に思い入れが強い場合ではないでしょうか。仲間から信頼を得ている人格者の発言であれば、物事はスムーズに進むのですが、そうでない場合にはギクシャクしてしまい場の空気が悪くなります。いくら実績があっても快く思われていない人の意見はとおりにくいもので、無理に通すとしこりを残してしまうかも知れません。
 《感覚のズレている人》も組織やグループの中では浮いてしまいます。そんな人の非常識な発言が、盛り上がりに水をさしてしまうこともよくあります。本人は気づいていないのですが。
 高い学歴や豊富な知識を持つことはとても大切てすが、それだけでは将来、一人の社会人として合格点には達しないのではないでしょうか?
 大局観を持ち、的確な状況判断が出来るようにならなければなりません。そのためには、まずは、アンテナを高くすることです。周囲の情報を出来るだけ多く収集し、無理にでも人の話に耳を傾ける訓練を絶対にしなければなりません。
 自分自身のなかに、あらかじめ先入観があったり、結論を持っていたのでは、周囲のアドバイスも自分自身の都合の良い部分しか聞こえなくなります。せっかくのアドバイスも、修正しなければならない肝心な部分には届かなくなってしまうのではない
でしょうか!
 私自身も考えさせることが、多々あるような気がしてなりません。

【そろばん学習】
 古いイメージを払拭

 ”思い込み”というのは誰にでもあることです。一度染み込んだイメージというのはなかなか抜けません。
 悲しいかな、私の愛する【そろばん】は未だに多くの人たちに少し古めかしい印象をもたれているような感じがします。ここに書くまでもなく、昨今はIT・PC、今ではスマホ、そしてネット社会。これから世の中はますますその恩恵にあずかることになるでしょう。でもそれでもいいんでしょうか?小学校の算数の教科書には一昔以上前から《電卓で計算しましょう》のマークがつく問題もあったくらいですから、何も計算のために必死に頭を使わなくても・・・と思われても仕方がないのでしょうか?
 ところが、人は楽をするほど自分の能力が落ちていくことになかなか気がつかなかったのですが、近年では《脳》に関しての本がたくさん溢れています。多数の大学教授、そしてTV、ラジオ、マスコミで有名な文化人などか〔読み書きそろばん〕を子どものうちにしっかり身につけさせるべきだと言っています。
 実際、IT化によって、誰もが自由に情報にいとも簡単にアクセスでき、自由に意見が言えるような夢の社会になると言われてきましたが、そのようになっていません。実際、IT化で、人間はものを考えなくなってきているのです。
 生物学的にも命を繋いでいくために必要のないものは退化していきます。遥か未来の人間たちはどうなっていくのでしょうか?いつかコンピューターやロボットたちのいいなりになってしまって・・・・・・、まるでSF映画の世界、怖いですね。しかしその傾向になりつつあります。
 少し話がずれてきました、元に戻しましょう。だからこそ、あえて人間としての基礎能力を鍛えて、キープしなければなりません。そして生命力、心のないものに使われているのではなく、使いこなした人間ではないでしょうか。
 〔読み書きそろばん学習〕が、このような時代に対応する最高の訓練方法だと理解してくれる方々が少しずつ増えてきたように思います。現在、TVCM、ラジオCM、小学校へのそろばん講師派遣などを実施していますが【そろばん学習】で身につく能力が高く評価されるようになり、今よりも、もっと、もっと世の中にアピールして払拭していかなければならないと思っています。

【そろばん教室は頭を鍛えるところ】
《見えないものこそ大切にそだてましょう》

 『星の王子様』という童話、ご存知でしょうか?1943年にフランスの作家、サン・テグジュペリが発表し、今もなお、世界的に愛されている物語の一つです。
 その中の一場面でキツネが王子様に言いました。
「心で見なくちゃ・・・・。ものごとは、良く見えないってことさ。肝心なことは(本当に大切なもの)目に見えないもんだよ。」
 私自身、子どものころサラリと読み流していたものが、童話の持つ深い意味や、作者の想いをオトナといわれるぐらい良い年になって、ようやく理解できるようになりました。(今ごろ何をいっているんやと言われそうですが・・・・?)
さらにキツネはこう言い続けます。
 『人間っていうものは、この大切なことを忘れているんだよ・・・・。』

 さて前置きが長くなりました。そろばん学習で身につく最高の能力は、珠算式暗算(あんざん)です。これはまさに目に見えないものです。ハートの部分では、集中力・忍耐力など・・・・。どれもが目に見えないものばかりです。
 そしてそろばん学習を続けていくうちには、目にも見えず点数としても表すことができない副産物がたくさん作られます。お馴染みの集中力・忍耐力・敏捷性・etc。いつかソロバンから離れたときでも、一度身についたそれらの能力は人生の大きなサポーターとなっていくに違いありません。形のあるものばかりでなく、こうしたものを、大切に育ててほしいと思います。
「人間っていうものは・・・・。などと、キツネに言われないようにしたいものです。

【家庭での躾(しつけ)の不足?】

 日本の現状は、少子化で目が行き届き?、過保護、過干渉、過世話の家庭が増えているような気がします。ライオンが我が子を谷底へ突き落すような躾(しつけ)は流行らないようです。逆に、ガラス細工を扱うように子どものご機嫌ばかりを伺い、神経質に育ててしまう家庭が増えています。その結果、当然、子どもはガラス細工のように育っていきます。
 過度な厳しさと甘さのバランスがとれた躾が良いと思いますが、きつい言葉ですがバランスのとれていない親が子どもに対してバランスのとれた躾が出来るはずもないでしょう。
 時代の流れのせいにしたくはないのですが、否定できない部分もあります。昔は夏は暑く、冬は寒いのが当然で、自然に我慢する訓練?が出来ていました。それが、今はどこへいっても冷暖房完備。私たち大人も、近年の文明に甘え過ぎています。
 暮らしが快適になるほど、我慢に対する抵抗力を養う機会が減ります。例えが少し飛躍しているかもしれませんが、昔は江戸から京へも歩いたものですが、現代ではそんな人は滅多にいません。新幹線や車など便利なものがなければ歩くしかありませんが、便利なものがあるのに歩くのは、昔とは比較にならない苦痛を感じるでしょう。以前は、自然と身についていたものが、現代ではわざわざ過酷な環境を設定しないと身につきません。温室育ちが世間の寒風をことさら厳しく感じるように、成長段階に快適な環境に置かれることが将来の幸福につながるとは限らない!ということを、今の大人たちも含んで、これからの若い世代の人は知るべきだと思います。
 家庭での躾(しつけ)は、私たちのような「そろばん」・「しゅうじ」の指導者が直接できるものではありませんが、保護者の皆様に多くの情報を提供し、何が正しいかを少しでも伝えていくことが、生意気な言葉で申し訳ありませんが、必要だと思っています。
 物事を継続していく経過において、感情の起伏はあって当然です。まして子どもであればそれが顕著に表れます。やる気満々の時期あれば、どうにも気力がわかない時期もあるでしょう。私たち大人もそういうときもあるのですから。
 また、時代の流れとともに今の若い人の精神年齢の低さが気になります。超高齢化社会に向かって突き進んでいる日本ですから、精神的に若いというのはいいのですが若いというより、幼稚という気がしてなりません。一億総幼児化傾向といっても過言ではないと思います。
 日本の将来を担う子供たちへ、そろばん・しゅうじを通して教育に携わっているという自覚を常に持ち、今以上に内容のある授業、指導を心掛けていきたいと思っていますので、更なるご理解ご協力をお願いいたします。

【道具を使う】

 人間と他の動物を区別するものさしはいくつかありますが、その中の一つに例えば「道具を使う」ということがあります。サルでも道具を使うことが目撃されたことがありますが、それは目的意識をもって道具を使うというよりも、偶然に手にしたものが道具の働きをしたというほうが正しいようで、人間のように目的を持って道具を作ったり、道具を使って他の道具を作り出すというようなことはできません。
 道具はすべて人間の行動を手助けしてくれるものです。直接手足を使ってするよりも力が助かったり、手間が減ったり時間が少なくて済むようにしてくれるのが道具です。ですから道具は人間の知恵と工夫の産物だと言えますし、知恵を使い、工夫を凝らすのが人間だということになります。
 普通、人間は必要に迫られて工夫、努力をします。珠算学習をしている皆さんの場合、この「必要に迫られて」というのは「向上心があれば」と言い換えることができるのですが、現状の実力に決して満足せず、1題でも1秒でもタイムを縮めるにはどうすれば良いのか、誤算をゼロにするにはどうすれば良いのか、常に自問自答を繰り返すことが、工夫を凝らす、努力をする第一歩ということになります。
 結論を非常にわかりやすく言うと、「へたくそ」を自覚することが工夫を生むということです。へただから工夫し、努力し、工夫、努力をするからうまくなり、うまくなるからその先の視界が開け、また、工夫、努力をするという繰り返しが人間を向上させるのです。
 工夫、努力が血となり肉となっていくことを経験してみてください。なかなか思いつかない人は、上級の人でしたら、例えば難しいことですが、答えを書くときに次の問題を見て少しでも暗算で計算する、浮き玉をそろばんを計算しない方の指でそっと直す、以上の二つを実行してみてはどうでしょうか。
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