双葉学院 天美教室(あまみきょうしつ)

つれづれの想い

礼儀は感謝の表現★正しいマナーが快適さをつくる★

  自分が感じていること考えていることを、他人は外から見ただけでは理解することはできません。それらを言葉で表すなどの身体的動作によって初めて、相手に自分の意思や気持ちを伝えることができます。つまり、身体に表されたものによって、他人はこちらの心を掴むわけです。自分がどんな言葉を話し、表情をし、行動をとるかは、相手にとって大きな意味を持つことになります。
  礼儀こそ身体的動作によって表れるものですから正しく行われるかどうかは、大人ともなれば社会生活を送っていくうえで極めて重要なことと言えます。そして人間が生きていくうえで絶対不可欠なものです。礼儀とは人と人とのを強くするのです。
  現代の社会から礼儀作法が失われつつある理由は、人々が自分の権利意識だけを振りかざし、他人や世間のことをあまり考えていないからだとも言えます。しかい、それだけではなく、礼儀正しいということを形式主義だとか言って、軽んじたことにもその理由があります。かつて世界中の人々から「日本人ほど礼儀正しい国民はいない」と言われていました。が、今はどうでしょうか?新聞の投書欄などを見ると、礼儀(マナー)の忘却についての内容をよく見かけます。偏差値教育に偏り過ぎて、親が生活マナーを教えていないことにも原因しているのではないでしょうか。個人の主義が強い時代において秩序を保ち、快く暮らしていくには、誰もが礼節(礼儀と節度)をわきまえて行動する必要があります。
  自分が今日生きていられるのは、社会のさまざまな恩恵があればこそだと気づくなら人の心には、すべての人々に対する感謝の気持ちが湧き上がってくるでしょう。少し宗教的になってきた感じがしますが、感謝の気持ちが強ければ、その気持ちを表したいと思うのは、人として当然のことだと言えます。そしてそれはまず、正しい礼儀と言う形としてそう言った心を持ち合わせていないと、平気で人を裏切ったり、ウソをついたりだましたり、そして挙句の果ては、恩を仇(あだ)で返すようなにんげんになってしまうのではないでしょうか。このような人間にならないためには、小さいころからキッチリとしたマナー(礼儀)を教えておかないと、いくつになっても、例えば二十歳の成人を過ぎても、小さいころのそのままを引きずって成長してしまいます。例えの方向が少し違うかわかりませんが、近年、人を傷つけたり、あまりにも簡単に人を殺してしまうのも、子どものころからの躾・礼儀、我慢がないからではないでしょうか。
  《可愛いだけでは子供は成長しません》礼儀作法とは、単に人間関係を円滑にするための手段としてではなく、相手の感謝とか細やかな心遣いが具体的な形として表現されるものと言えます。これを「感恩報謝」と言います。(私は宗教家ではありませんよ)
  季節的には、まもなく秋も終わり、冬に差しかかります。古(いにしえ)の昔から「秋」は収穫の季節とされています。皆さんのご家庭では、この秋、どのような収穫があったでしょうか。もちろん「感謝」や「恩恵」の種をまいておかないと収穫はありませんが。

競争社会で生きるためには・・・・

「競い合うということは好きですか、嫌いですか?」という問いに何と答えますか?もちろん事と次第によりけりであり、一概に答えることは難しいでしょう。人間の歴史を振り返ってみると、欲望のあるところに競争があり幾多の戦争もありました。利害が相反し互いに妥協点が見いだせないのでしょう。理にかなった意見を持っている平和主義者であっても、相手が分らず屋で聞く耳を持たずに攻撃を仕掛けてきたらどうしますか。対応せざるを得ないでしょう。《逃げるが勝ち》という信念を持っていても、相手がどこまでも攻めてきて追いつめられたら保身のために戦うしかありません。理不尽な戦いを強いられることは苦痛ですが、逃げることはできません。シマウマがライオンに媚びても許してはもらえません。競争さえなかったらどんなに平和な日々でしょう?
でも現実には《醜い競争》がとても多く、しかも強い者が勝ち、弱い者が負けるという勝敗がはっきりとしていることです。シマウマがライオンに襲いかかるといったことを聞いたこともないし見たこともありません。嫌な表現の仕方ですが弱肉強食こそが競争原理の原点なのです。しかし見方を変えれば、競争があったからこそ文明が発達し、そこそこの文化的生活が出来るようになったことも考えられます。
好き嫌いの選択の余地なく競争も強いられず、幸福な人生を歩むためには、勉強でも運動会でも、バーゲンの買い物でも?至るところで競争です。であれば、本当に強くなるしかありません。少なくとも他人を蹴落とす競争はともかく、自らを高めたり、守ったりするための競争は積極的に肯定するべきです。それも他分野で勝者になる必要は全くないのです。仮にシマウマの立場であったならば身体を鋼鉄のように鍛えライオンが歯が立たないようにするのです。そうすれば、襲われても少しも慌てることはないでしょう。しかし、残念ながらシマウマにはトレーニング機器がありませんし、それ以前に【鋼鉄のような身体にしよう】と発想することができません。あり得ないことですがシマウマがこれを読んだら気を悪くするでしょうね。
しかし、人類は幸福にも、物事を自由に発想したり工夫したりする能力を授かっています。これを利用しない手はありません。人類全体が最善の努力をしているのなら、勝者となることは大変ですが、大多数は怠慢なのです。現状よりほんの少しだけ他人と違った努力をすれば、競争社会の勝者になることも可能かもしれません。表現を変えれば競争嫌いな人は現代社会を生きていくのは不向きである、とも考えられるでしょう。一部の特権階級の人々だけは競争を必要としないかも知れませんが・・・(腹が立ちますが)
現在では、敗者の心情を考慮しすぎてかあまり競争を推奨しません。しかし、子どもたちは高校受験などで突然に競争を強いられるのです。競争というのは、一生ついてまわるものであり避けることはできません。競い合うことに慣れておいても決して損はないと思います。

やさしい心を育てるということ

このごろ教室で、生徒たちと接していて気になることがあります。それは、自己中心的な言動が多いことです。ごく限られた気の合う友達だけに心を許し、それ以外の人には、どこか攻撃的であるように見えます。周りに対する気遣いや思いやりといったものはみじんも感じさせず、「自分さえよければそれでいい」という様子です。もちろんそうでない子供たちの方が圧倒的に多いのですが、少数の「自己中心派」の影響はかなりのものです。
本来、人間は自己中心的といえるのかもしれません。どこかの外国で火山の大爆発・大地震・集中豪雨などが起きたとき「日本への影響はないか」とまず考えるのは、ごく普通の心理でしょう。影響なしとわかればホッとし、それから被災地のことを初めて心配したりします。北朝鮮が核兵器を持っているかもしれないと心配する人は多くても、イスラエルが核兵器を持っていることを真剣に心配している人はあまりいないでしょう。日本へのひいては自分の生活への影響の大きさの違いです。今年のように異常な暑さ、局地的な集中豪雨で、米・野菜・果物が不作となれば、「また、米・野菜が高くなるわ」と家計の心配をします。「農家の人の生活は大変だなあ」と、いきなり人の心配をする人は少ないと思います。
何が言いたいかというと、意識しないでいると、だれでもが「自分の家族さえ平気ならいい」と利己中心的な考え方をしてしまうということです。だからこそ周りの人を気遣う≪やさしい心≫は、意識的に育てていかなければならないと思います。
そういう心が育つ要因の一つに、〔人のやさしさにふれる〕という体験があります。思いがけず人からやさしい言葉をかけられたり、やさしくしてもらったりすると、その喜びは忘れがたいものとなります。そして、【自分もそうしてあげたい】と考えるのはごく自然な心の動きと言えるでしょう。そういうやさしさにたくさん触れることのできる人は幸せです。なぜなら自分もきっとやさしい人間になって、周りの人からありがたく思われたり大事にされたりするに違いないからです。
{子供たちに最も深い愛情を注ぐことができるのは、紛れもなく両親です。}
「うちの子は思いやりがないと」嘆く前に、「この子はやさしい心にふれる機会が十分あったのだろうか」と考えてみてはどうでしょうか。愛情を注ぐことと、あまやかすことは絶対に違いますが、「あまやかしたくない」と必要以上に厳しくしたり、冷たい仕打ちを子供にしてしまうことはありませんか?
やさしい心を育てるには、やさしくしてもらうことのうれしさを教えてあげることが一番ではないでしょうか。今からでも決して遅くはないと思います。

みなさん、にこやかにやりましょうね

人間は感情を持つ動物です。もちろん、他の動物も感情を持っているものはいるでしょうが、他のものに感情を伝達する能力→他のものから感情を受け取る能力→他の感情を考えて行動する能力は、恐らく人間特有のものだと思います。生活の各場面において、この能力があまり発達していない人が混じっていると、いわゆる《人間関係》に苦しむ被害者が出てきます。また被害者=加害者である場面もあるでしょう。
しかし、この能力が劣っている人を責めてみても仕方がありません。というのは、その人自身が望んで能力を持たなくなったからではないからです。幼いときから、この【他の感情を考えて行動する能力】を磨く機会が少なかったからかもしれませんし、練習する場面がなかったかもしれないからです。たぶん無人島でたった一人で育つと、きっとこんな人間ができあがると思います。他人のことを考える必要がまったくありませんし、必要のないものを訓練するほど馬鹿げたこともないでしょう。しかし、現実はこの多くの人間が住む日本では『心は無人島』の人が増えています。社会を構成する基本である《家族》の中で、この能力を磨く機会を極端に奪われている人が増加しているような感じがします。また、自分でそのチャンスを捨ててしまっている人も多いと思います。原因は何なのでしょうか。「忙しくて家族と話す時間がない」という方もいるでしょうし、「子供が話を聞こうとしない」というご家庭もあるでしょう。しかし、それはそれで主な原因になっているかもしれませんが、要は《やり方》ではないでしょうか。話す時間がなければ『手紙作戦』や『ビデオ作戦』などもあります。
話を聞かない子どもに対しては「なぜ聞かないのか」「話がいつも説教じみていないか」と一度考えてみてはどうですか。なによりも『にこやかに接しているか』をよく思い出してみてはどうでしょうか。家族の会話で、いつも尋問口調になっていませんか?子どもが「シュン」としていませんか?
感情豊かな人間性を育むのに最も活躍するのは、やはり《家族》です。
しかも《家族》を構成する一人一人が心から信頼できる家族なのです。

先生?という仕事

保護者の方々と話していると、「先生は子供たちの心をよくわかっていらっしゃいますね」と言われることがあります。それはうれしく、お褒めの言葉をいただいていると認識してありがたく思っていますが、ところが私自身、子供たちの気持ちの半分も理解しているかというとそうではなく、毎日手探りの状態が続いているのが本音。珠算・書道教室を始めて長くなりますが、解ったことは、当たり前かもしれませんが『人の心はわからない』ということです。と言いましても、決して投げやりなものではなく、『人の心をわかろうとすれば、そこに無理が生じ、自分の経験に照らして生徒をパターン化しようとする』行いに気が付きました。いったん生徒をパターン化してしまうと、生徒の可能性を以前の生徒が進んだパターンに当てはめることが多くなり、生徒を《個人的な存在》として見なくなりがちになります。『生徒理解』は、文字通り『生徒一人一人の身体面・精神面の両方とも理解し、あわせて育ってきた環境まで?把握出来ることに努める』です。そして、この努力の結果、生徒一人一人の個性にあった教育をして、個性の伸長をはかることを、目的としています。人に勉強を教えるのは、現代のようにコンピューター化が進んだ社会では機械でも十分間に合うでしょう。ですから、教師というのは、機械には決して出来ないことを可能とすることに存在意義があり、最もはっきりと機械よりも優位にたてるのが、この『生徒理解』です。よく【昔の先生は厳格で威厳があった】と言われますが、例えば学校の進路指導を考えてみますと、子供の進路選択肢が現在のように多様でなく、古い話になりますが、戦前は国威発揚、戦後は経済復興へと、国民の大部分が同じ方向を向いていたため、画一的な鉄拳指導ができたからですは、言い過ぎでしょうか。ところが、価値観の多様化している現在では、一人の先生がたどってきた道は恐らく数千、数万のモデルの中の一つだと思います。従って自分の知らない領域は《憶測》でしか物が言えないのです。いくら勉強しても他の社会を知ろうとしても実際には机上のものでしかありません。それでも、「わからない」ことを「わからない」と口に出せば、先生失格の烙印を押されかねない風潮があります。ですから、教師は自分がよくわかっている領域で、勝負をしがちになりかねません。それが、最初に書きました《生徒のパターン化》につながっていくものだと思われます。しかし、にもかかわらず教師は『生徒理解』と他の社会の勉強を進めていくのです。問題のある生徒に教師が『なぜわかってくれないんだ』という憤りをもつ前に、教師が自分自身の幅を拡げるためには、何をしなければいけないのかを考えるべきです。私もですが。


《普通》で満足してはダメ!良い人間になりましょう

毎日毎日、いやになるほど各地で犯罪が起きています。世の中には本当に悪い者がいます。戸締まりをきちっとしなくてはいけないし、子どもの帰りを心配しなくてはなりません。善良な(?)市民にとっては大変迷惑です。誘拐、窃盗、放火、殺人、収賄など、あるいは学生の非行、登校拒否、いじめなどは善悪の判断ができ、自制心があり、環境さえよければ起らないはずです。善良な人間ばかりになったら世の中は住み心地のよいものになるだろうし、悪人がいなくなったとすると、善人の平均値は上昇します。となると、良い事を進んでしない人間、すなわち、現在《普通》と思われている人たちが最下層になってしましますね。言い方を変えると、現実に悪人が存在するからこそ、普通の人が当たり前の顔をして生きていけるのであり、悪いことをしなければ良い、という消極的な考えで生きていけるのではないでしょうか。
 『良い・普通・悪い』の3段階に分けて考えた場合、一般常識のある大人であれば「悪いことはいけない」という教育を子どもに施すのは当然です。「良いことが望ましい」ということにも異論はないと思います。問題は《普通》で満足するか否かです。《普通》の定義もなく、人それぞれに基準があるので論じるのは難しいですね。自ら《普通である》と思っていても、周囲から見ると「普通ではない」場合もあるでしょう。良い方向に普通でないのは好ましいのですが、大抵の場合は逆です。人間の自己評価は他人が評価するより2割程度高いと言います。無意識に増長している人がほとんどでしょうね。確かに、今の自分を認め肯定する方が楽です。しかし、自らに甘い評価を与える生き方が身についてしまった人は、概して人間的魅力に欠けているのではないでしょうか。特に若い時期に楽な生き方をすると、本来ならずっと先にある人間的成長の限界を手前に設定してしまうことになるでしょう。
 《生きる》ということは世の中に貢献することである、と考えることもできます。周囲の人々に直接間接に何かのプラスの影響を与えてこそ存在価値があります。他人から何かをしてもらってうれしく感じた経験は誰でも持っているはずです。であれば自ら他人に対して良いことをすることが望ましいのではないでしょうか。
 現代人は、他人を思いやる気持ちが徐々に少なくなってきてるような気がします。
 40年間ほど、子どもたちを見てきて、最近特に感じています。自分だけの損得を最優先し、周囲への気配り、サービス精神に欠けているように感じます。
 自己否定を勧めます。一度、自らを否定してみれば、新しい何かが見えてくるかも知れません。生活に追われた現状にドップリと浸かり、考えることすらしない硬い頭になってしまってはいけません。「悪い」ことはマイナスであり、《普通》はゼロです。プラスになって初めて、世のため人のためになることを認識する必要があります。
 難しいことですが、是非、がんばりましょう。私も、がんばります。


終わった時は始まっているとき

 入学試験が終わりました。三学期が終わりました。珠算では、24年度の最後の珠算・暗算検定試験が終わり、書道では毛筆の昇段進級試験が終わりました。少しほっとしたいというのが実際の本音でしょうか。
 でも「一つが終わったときは、次が始まっているとき」なのです。小学校を卒業したときは、中学3年間が始まったときだし、3月の検定試験が終わったということは、5月の珠算・暗算をにらんでの練習が始まっています。中学校を卒業し、高校入試が終わって合格の喜びをかみしめたとき、どんな高校生活を送るのかを自分に問いかけるとき、つまり「次が始まっているとき」と言うことです。
 人間にとって休息は絶対に必要なものですが、それは呼吸(いき)を整えて次に備えるものでなければなりません。つまり、休息することと怠惰(たいだ)をむさぼることとは、まったく異質なものなのです。
 「終わったなぁ」という充足感に浸(ひた)りながら、心を解き放つ休息は素晴らしいものですが、人生のすべてが終わったわけではありません。「次が始まっている。」を心に留めてほしいと思います。
 かつて高校の恩師が、中間・期末テストが終わったホームルームで「一つが終わったときは、次が始まっているんだぞ。それの繰り返しが人生なんだから・・・」と言っていたのを思い出します。
 40を過ぎた教え子から「先生に何回も言われたことが理解、解る年齢になりました。若い者に受け売りをしています。」と、言われたこともありましたが、それほどまでに本当に難しいことかも知れません。

 でも、みなさんには覚えておいてほしいものです。
《一つが終わったときは、次が始まっているとき》 であることを・・・。
そして新しい学年を、大きく飛躍する年にしてください。期待しています。
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