双葉学院 天美教室(あまみきょうしつ)

つれづれの想い

《輝かしい未来のために》【善悪を見分ける】

 21世紀に入り、あらゆるところに交通、インターネットなどによる通信網がはりめぐらされて人々の交流や情報化が盛んになってきますと、世界中にはいろいろな異なった物の考え方をする人が多数いることに気づかされます。そうした価値観の多様さを知るにつれ、今まで閉鎖的な社会にあって一つの価値観の下に生きてきた人は、いったいその中のどれが正しくて、どれが正しくないのか、判断にとまどうことがあるでしょう。「正直者が馬鹿な目にあうような世の中であって見れば、善悪の価値基準などはない。自分さえ良ければいいんだ」と開き直る人がいるかも知れません。実際私の周りでも増えてきています。
 しかし、そうして誰もが好き勝手なことばかりしていたら、世の中はいったいどうなるのでしょうか? おそらく今まで以上に弱肉強食?という凄惨なものになってしまうことでしょう。
 そうならないためにも、私たちだれもが、いつ、どこにあってもまもらなければならない価値基準として考えられることは、どんな人に対してもその相手を喜ばせたり楽しませたり、安心させたり、生かしたりすることは良いことであり、逆に、苦しませたり、悲しませたり、困らせたり、傷つけたりすることは悪であるということです。
 こうしたことをわきまえ、難しい事だと思いますが、全ての人が幸せな人生を送り、自分の生命をまっとう出来るような世の中にしなければなりません。 こうしたことは、一見簡単そう?に見えても、いざ実際に実行するとなったらなかなか大変なことです。
 しかし、まず自分というものを信じて、自分からやらないで、いったい誰がやるというのでしょうか。《輝かしい未来のために》 考えさせられますね。

《輝かしい未来のために》【正しい目標を定めよう】

 受験戦争たけなわとなると、受験生をかかえる親は、こぞって自分の子をなるべく有名校や一流校に進学させるべく日夜腐心し、そのけなげさ、親心には頭の下がる思いがします。また受験生自身も、周囲の風潮にあおられて、何が何でも難関を突破して初志を貫徹したいと、余念がないようです。それはそれで結構なことだと思いますが、いったい何のために受験し、進学するのか、その目的が親も子もはっきりしているのだろうかと、ふと疑問に思うことがあります。
 良い学校に進学出来れば就職もたやすく、生活が安定するからとか、他人も受験するから、という理由で受験戦争の渦中に巻き込まれるのだとすれば、極端ですが、それこそお金と時間の浪費以外の何ものでもないでしょう。いくら進学でき、そこで学ぶことができたとしても、それが世間体を取り繕ったり、お金を稼ぐ生活の手段のためだけだったとしたなら、それはむなしいことだと思いませんか?
 確かに学校へ行けば、何らかの学問、知識や肩書を得、技術を身につけることは出来るかも知れませんが、それが自分の利益のためだけであったなら、それは本人を小利口にし悪知恵をつけるのに役立つだけで、はっきり言って世の中のためにはかえって有害無益となります。
 進学し、学問を身につけるということは、見栄や自己満足のためだけにするのでは決してないと思います。
 それではいったい私たちは何のために入学し、仕事をし、会社へ入社するのか、その動機や目的によって、これからどのような人間になるのか、およその見当がつくものです。いい加減な勉強や仕事をしていながら、将来は恵まれた生活をしたいとか、立派な人間になりたいと願っていても(願うことは自由ですが)、それは高望みというものでしょう。
  「志(こころざ)し定まれば、気満つ」 と吉田松陰の言葉があります。生きがいのある充実した人生にするには、今からでも遅くはないと思います。
 自分の将来への夢を持ち続け、人生の目標を立てて、それに向かって突き進んでいきましょう。  《輝かしい自分の未来のために》

【恥ずかしいような学校?】

 どの学校も新学年のスタートを切って、間もなく2ヵ月。中学・高校は中間テストも終わり、順調にペースが上がっているようですが、この時期になるとちょっと気になる言葉をきくことがあります。
 以前習っていた生徒のお母さんに道であったときに、気になるものだから「どこの学校に行っておられます?」「一応行ってぃますが、恥ずかしくて言えるような学校ではないんです」また「お兄ちゃん、どこの高校?」「言うたらあかんねんて」と言う子がときどきいます。
 これがどうもひっかかるんです。“恥ずかしいような高校”とが人に言えないような高校”というのが本当にあるのでしょうか。少なくとも子どもが自分なりに努力して(努力していない人は別ですが)つかんだ結果じゃありませんか。それに、そういう言い方は、その学校に通っている生徒や卒業生、またこれから入学する人たちに対する、とても失礼な言葉だと思いませんか?
 それほどまでにブランドの大学、進学高校への(主として親の)願望が強いということかも知れませんが、そのような親の意識がテスト対策と、入試テクニックの勉強を押しつけて、考えることよりも覚(憶)えさすことだけを優先し、そのあげくは「めんどうくさいこといわんと早く答えだけを教えてくれ」という子どもをつくってしまうと思います。〔考えようとしない子が増えているのが現状です〕
 「年表を暗記するだけの歴史学習では、過去を正しく知った上で世界の国々とどう関わっていくべきかを考えることなど絶対にできない。そしてそれが日本人にとって最大の不幸だ」と論評する人もいます。世界とのグローバル化は難しいでしょうね。
 どうか勉強、学問の意味をもっと大きく捉え、他人と比較せずに子どもの自己努力を正しく評価してあげてほしいと思います。そのような接し方が自分で問題解決に取り組むという姿勢を作ってくれると思いますし、育ててくれると信じています。

【赤ジュータンと教え過ぎ】

 スポーツの世界では「打たれ強い」というのを聞きます。ヒットは打たれるけど点はやらないとか。パンチはもらっているのにダウンしない、を指す言葉ですが、言い換えれば逆境に強いということでしょう。
  「打たれ強い」とか「逆境に強い」とされる人間は決してカッコよくないし、スポットライトを浴びることも少ないでしょう。つまり華々しさとは無縁の存在ですが、それだけに尊い生き方だし、そうありたいと思います。
 ところで、この「打たれ強さ」というのはどこからくるのでしょうか。無論もって生まれた資質もあるでしょう。また環境に負うところが大きいのも確かです。ただ、資質は別にしても、そのための環境をつくることはできると思うのです。それにはまず「ぺケアレルギー」や「失敗アレルギー」を取り除く必要があります。
 結果重視のせいでしょうか? 答えだけがほしいという風潮は恐ろしいことです。ある中学校で数学の類題の説明を始めたら「そんなことはいいから答えを教えてくれよ」と言われて意欲を失ったと聞いたことがありますが、極端であっても笑えない話です。こんな中から「打たれ強い」人間は育たないでしょう。今の子どもたちには、自分でやって失敗し、「挫折感」を味わうべきなのです。(現代の若い親には無理でしょうね)
 大切なのは「挫折しないこと」ことではなく「挫折から立ち上がる」ことですが、それを妨げているのが《ころばぬ先の赤いジュータン》と《教え過ぎ》のような気がします。親は子どもの前に赤いジュータンを敷いて「さあ、この上を歩きなさい」だし、学習塾などでも自分自身で考えることをさせないで、詰め込みばかりで、あまりにも教え過ぎるような気がします。
 私のそろばん・しゅうじ教室でも、昔に比べると「手とり・足とり」して教えていますが、時々は首をかしげることもあります。とにかく教えられ過ぎた子は手さぐりをしません。ただ教えられるのを待っています。そうではなく自ら考え行動をするような人間になって欲しいのです。
 日々の練習から、また検定試験、競技大会から「打たれ強さ」を養って欲しいと思います。失敗を恐れないように。 「失敗は成功のもと」です。

【楽で便利な世の中 人間を堕落させる】

 標題の一例として、漢字が書けなくなっている大人がたくさんいます。調査では、小学校5年生で習う漢字の書き取りテストの平均点は、成人で50点以下でした。
 何故、大人たちは漢字を書けなくなったのでしょうか? 私は現代社会に問題があると思っています。楽で便利な世の中になり過ぎました。情報を処理する技術が発達し過ぎです。情報の処理はもともと私たちの脳が行う作業でした。ITなどを利用するということは脳の働きを補助する装置を使って作業することであり、自分の脳の漢字を思い出す機能が退化したのです。
 楽で便利は、人類の可能性を大きく広げてくれるであろうという期待が反面、このような悪影響もあることを肝に銘じなくてはいけまん。子どもたちの教育にどう取り入れるのかに関しては、特に熟慮が必要と思われます。心身をたくさん使って鍛えなくてはいけない子どもたちに、楽で便利な環境を与えることは、ある意味多くの矛盾をはらんでいます。
 同じ楽で便利な道具を使用している時でも、手を使い作業を行う時には、脳をたくさん使うことが最先端の脳科学研究で明らかになっています。
 その代表例の一つが《算盤=そろばん》です。そろばんの珠をはじいて計算をしている時に、人間の脳の中でも最も高度な働きをしている大脳の前頭前野が大いに活性化します。しかし同じ作業でも、電卓などの機器を使って計算を行うと前頭前野には逆に抑制ががかかります。そろばんと同様に手を使う作業として、字や絵を書いたりすることが学校や家庭生活では身近にありますが、それらも前頭前野を大いに活性化させます。
 前頭前野は言語や思考、記憶や学習を制御する脳です。また、ヤル気を発揮し、他者とのコミュニケーションを円滑に運ばせるためにも重要な働きをしています。
 この前頭前野が子どもたちの生きる源泉であると考えられており、教育や生活の中で、いかにたくさんの前頭前野を使う経験をするのかが子どもたちの将来に影響するのではないかと思っています。脳研究の成果を見るにつけ、江戸時代や明治の先人たちの生活の知恵の中に前頭前野をたくましく成長させるヒントがあるのではないでしょうか。
 ローテクな生活、教育をもう一度見直してみてはどうでしょうか?

【去年の自分と今年の自分を比較して】

 学校・学習塾などでテストをして「今度のテストで○○さんに勝った」という話を聞くことがたまにあります。
 偏差値教育の歪(ひず)みなんでしょうが、どうしても他人と比較してしまいがちです。ライバル心があって良いことではあるとは思うのですが?
 でも、皆さんには他人との技術・実力を比較するよりも自分の力を客観的に見つめることに関心をもってほしいのです。
 以前、ある雑誌に
  「他人と自分を比較して、他人が自分より優れていたとしても恥ではない。
   しかし去年の自分より今年の自分が優れていないのは、立派な恥である」

 まったくそのとおりだと思います。例えば、そろばん・しゅうじを習い始めたころのことを思い出してください。その日その日をしっかり練習していって新しいことをどんどん吸収していって進歩してきました。また、それが楽しかったのだと思います。ところが段々と上手になっていくと、そのころのことを忘れてしまい、日ごとの進歩はおろか、去年の自分と今年の自分を比較してみようなんて気が、まったくなくなってきています。
 去年の自分と今年の自分を比較する絶好の時期です。去年よりも進歩しているかどうか、頭に入れておきながら練習(勉強)すると、練習にも一層力が入ると思います。
 今年からは、ソロバン・習字・学習・他の習い事に自分の力というものに関心をもってください。関心を持ちましょう。そして何か一つでもいいですから、向上、進歩していることを感してみようではありませんか。がんばってみてください。
 一日24時間の行動を大切に計画を立てて実行すれば(大変難しいことだと思います)、それが自信につながり、将来においても悔いを残すことはないと信じます。先生もがんばります。

【東京=日本】じゃない

 テレビやラジオから流れるのは、ほとんどが東京弁に近い標準語。ドラマの舞台も大半が東京だし、グルメのお店が紹介されるのも東京が中心。私の僻(ひか)みでしょうか? 話は違いますが、大阪も人は多いが、東京は圧倒されるぐらい人が多すぎます。
 そして何よりも政治・経済の東京一極化というところから、外国の人の中には、《東京=日本》と錯覚している人が多いと聞きました。冗談じゃありません。東京は日本の一部だよと思いながら周りを見ると、同じような錯覚が以外と多いことに気がつきます。(東京サイドから見ると大阪は地方の一部です)
 近ごろのように情報が多すぎると、それに振り回されて焦ってしまい、つい近視眼的なとらえ方になると思われます。そのために、一部分だけを見てそれが全部であるように錯覚してしまっています。
「点数=能力」「学習塾=勉強」「学歴=人生」そして「検定試験=そろばん」という図式にはめてしまうケースが見られるのもこの錯覚のためではないでしょうか。 テストの点数は能力の一部だし、学習塾は勉強の一手段として利用すべきものです。また学歴は人生の一通過ポイントであり、検定試験合格は、そろばんの一目標点に過ぎません。これらはすべてほんの一部分ですが、目を近づけすぎて周りが見えなくなっていると、それらが全て(オール)になってしまいます。一歩下がって視野を大きくすると、もっと色々なものが見えると思いますし、物質の本質もつかめるはずです。
 文部科学省の招待で外国から来ている“アシスタント・イングリッシュ・ティチャー”たちが、今の日本の教育現場を【結果だけを重視する】【理解、考えることをしないで、暗記に走る】【成功指向が強すぎる】【社会人として訓練をうけないまま社会に出ている】などと告発、警告しているのも、あまりに視野のせまい知識だけ重視の≪勉強≫に疑問を感じているからではないでしょうか。
 子どもも大人も超近視眼的人間が増えてきている現在、「○○=××」からほんの
少し離れて見ることが出来るようになれば、きっと何か新しいものが見えるような気もすると思うのですが‥‥‥‥。

【遠くを見よう&広く見よう】

 どうしてでしょうか? 何が子どもたちから夢、希望を取り上げてしまったのでしょうか?
 首をかしげたくなることがたくさんあります。近ごろは子どもたちから『将来はこれになりたい』『大人になったらこんな仕事をしたい』という声が聞かれなくなったような気がします。
 《別に・・・》《わかれへん・・・》《考えたこともないし・・・・》というような感じの返事の言葉しか返ってきません。さみしくもあるし不気味にさえ感じることがあります。
 以前は、『医者になりたい』『経理の仕事がしたい』『通訳になりたい』とか。CA・自動車の整備士・幼稚園保育園の先生・ケーキ屋さん・ペットショツプ。もっと夢があったのは、今では考えられませんが、『お嫁さん』などなど、いろいろな夢のある話をしてくれたのに・・・。
 入試だけを睨(にら)んだ学習がエスカレートし過ぎて親も子も、先生までもが、超近視眼になってしまったのではないでしょうか?
 子どもたちの夢は《大人になったら・・・》が前提になっていたと思います。
つまり学校を越えた向こうを見ていたのではないでしょうか。それが正しい成長のあるべき姿ではないでしょうか。時には両親や先生と、中学高校卒業後の進路について、また将来の生き方についてなど語り合う機会もあっていいと思います。
高校生の全部が大学へ行くわけでもないし、少数とはいえ、中学校から社会へ出る人もいますし、決して人生の落ちこぼれでもありません。現実に、高校中退の人が増加しているのが現実現状です。
 学問・勉強は、色々なことを習って、頭脳の訓練のためにあると思います。
 人生とは狭くて短い一本道ではなく、うんと長くてとてつもなく広い荒野です。
超近視眼な持ち主や狭い視野の持ち主だったら、とても乗り切れないのではないでしょうか。
 皆さんには、これからの長ーい人生、できるだけ【遠くを見てほしい】し、【広く見てほしい】と思います。それが出来れば、肩の力も少しは抜けて新しい世界、進路が見えてくるのではないでしょうか。
  皆さん、将来の夢・希望を持ちましよう。 先生も応援しています。

教育の“教”とは父と子が交わる事

  “教”という字は、昔は、「交(コウ)」と「子」と「攵(ちち)」の三文字で合成されていました。「交」は《交わる》ことを表した文字なのです。現在はほとんど“教育”は学校任せ、人任せにしている部分が多いと思いますが、本来は「父と子との交わり」を表した文字だったのです。
 “攵(ちち)”は「手に何か持った形」で、その何かは、攻では武器、護では鞭で、父では“斧(おの)”です。遠い昔は、父と言えば、常に斧を持って野山を歩き回り、木を切ったり鳥獣を仕留めたりして、家族を守り育てました。‘斤’が斧の原字で、父の常に携帯する物なので、‘父’を加えて《斧》、音も‘フ’になり、家族にとっては、斧が父を連想させる親しみのある道具だったのです。
 昔は、子は父の働く姿を見て育ちました。人は生まれつき真似が好きですから、子は父のすることを見て、その真似をしていました。この真似が子の能力を育てたのです。昔はこれを「真似が」と言い〔学(まね)ぶ〕と書きましたが、〔学(まな)ぶ〕と読んで、“真似”は“真似る”と言って区別するようになりました。
 子は親の真似をして能力を育て、一人前に成長しますので、子は親を尊敬し、親の教育ともども有り難く受け取って良く守りました。こうして親と子の親密な交わりによって親子ともども進歩向上して現在の社会が作られてきました。
 しかし、第二次世界大戦で敗戦した日本の家庭は一変したのです。強くて賢い日本、日本人を恐ろしく思ったアメリカが、極端ですが、日本古来の家庭および家庭教育を壊し始めました。そしてアメリカの個人主義自由主義を日本に強制?しました。そのため多くの人は甘い誘い(?)に乗って、日本の伝統ある家庭を築くことをやめ、安易な自由に溺れてしまい、今日の醜態を招いてしまったといっても過言ではないと思います。
 これに拍車をかけだのが【国語改革】です。日本人は国語を学んで日本人になると思うのですが、これを教えるのが両親・家庭だったのです。就学前はもちろん、学校へ行くようになっても、解らないことは親に尋ね、教えてもらいました。だから親は子どもにはスーパーマンであり親としての権威がありました。子は親の指導を素直に受け、素直な人になれたのではないかと思うのです。
 ところが、戦後の国語改革のため、親が子に国語を教えられない時代となりました。親が教える国語=家庭教育と言ってもいいでしょうが、アメリカのGHQの影響で学校ではすべて間違いとなったのです。戦後の親は子どもに教えることが出来なくなり、権威がなくなり、子が親の教えを聞かなくなり、ワガママな子どもが多くなったと言われています。平成の現在では考えられませんが‥‥‥‥
 特に近年、我が国、日本は英語に力を入れています。不思議でたまりません。国語力の低下、日本の伝統を取り戻すのが、日本人としての責務ではないかと思います。
 日本の低学年教育においては徹底して国語、漢字を教え込み、本を読ませるべきです。
《初等教育においては、日本の伝統文化『読み書き計算(そろばん)』が絶対に必要です》

【学ぶ心を養おう】

 自分一人の力で考え、自分一人の智恵で物事を成功させたと思っている人がたまにいます。それは大きな間違いです。本当は人から教わったものです。なぜかと言いますと、人から何も教わらず、人から何も学ばないで、自分の力で考えられるものは何ひとつとしてないでしょう。
 幼児は親から、生徒は先生から、後輩は先輩からというように、多くの人々との接触によって色々と教えられ学んできたのです。それらの教えられ学んできたことを基本にして智恵を絞り出し、その上で案出して物事を成功させていったのです。
学ぶ心さえあれば、極端ですが宇宙の森羅万象すべて目につくものが師匠であります。
 そろばんの練習でもそうです。あの子は暗算がとても早くできる、どうしたらあのように早くできるのか、と考えて見るとか。また、あの子の伝票は何かギコチない、少しでも早くめくれるように知恵を出せばいいのに・・・・など。例を挙げればキリがありません。
 この子にとっては相手の子は師匠です。何故かと言いますと、その相手の子によって自分が色々と自然に学んでいるのです。
 学ぶといっても勉強、学問ばかりではありません。どんな小さな事柄でも、どんな人からも謙虚に素直に学んでいってこそ、自分の考えも出せ、知恵も沸き出てくるものだと思います。
 あの人の造ったものはこうだから、ここをもう少し改造したらどうか‥・・とか、今回は失敗したが、次回は同じ失敗は繰り返さないぞ・・・・などは、すべて考えや知恵の学ぶ心です。
 今まで自分の聞いたことや、体験したことを手本にして、良い考えや、優れた知恵を生み出して成功させていくように、すべての物事を師匠として学ぶ心を養っていってください。がんばってみましょう! 期待しています。
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