双葉学院 天美教室(あまみきょうしつ)

つれづれの想い

【試行錯誤(しこうさくご)】

 辞書をひくと《新しい課題に対して、いろいろとやってみて失敗を繰り返しながら正しい方法を見つけ出そうとすること。》とありましたが、最近はこの言葉をほとんど使われなくなったように思います。失敗を繰り返しながら正しい道を探るゆとりがないのか、大人がレールを敷いてしまうことのほうが多いように思います。
  〔知識は目と耳から、知恵は体験と言いますが、体験は知恵の苗床です。〕
 そして失敗は、苗床に欠かせない肥料です。失敗を恐れるあまり、まわりが敷いてくれたレールの上を、与えられた燃料を炊いて走れるだけの子どもが目につく昨今ですが、自ら手探りでレールを敷き、自ら燃料で補給するという知恵(智恵)の素晴らしさに、お父さん、お母さん、そして大人はもっと目を向けてほしいと思います。
 学校の成績が悪かった? そろばんの検定試験が悪かった? いいじゃないですか。それが本人の体験なんですから。そこから>試行錯誤をはじめましょう。そして次のテストは今までとは違った考え方で努力してみましょうよ。それでもすぐにはうまくはいかなくても、また考えて・・・・・こうして自分に合った勉強のやり方が見つけられたら最高ですね。自分自身で取り組んで見ましょうよ。点数が悪ければすぐに学習塾?自分で考える力、自分でメリハリをつけ、やる気を出して頑張ってみてください。
 そろばんの練習をしている人は、していない人よりも多くの体験をしています。検定試験や競技大会の参加となれば、さらに貴重な体験です。また、中学生・高校生になって勉強とクラブ活動とそろばんとの時間を、どうやってやりくりしようかと悩むのも得難い貴重な体験だと思います。
 段位、級位検定試験が近づくと、「苦手種目ばかりやってみよう」とか「早いクラスで練習を・・・」と、自分でレールを敷く子もいます。良い意味で試行錯誤をしています。もし失敗しても、別の道を探してもいいでしょう。応援 しています。
 大人がレールを敷いて、その上を「それ、走りなさい!」では、少しさみしいと私は思うのですが、どうでしょうか?
   ☆近ごろの大人、世の中の考え方では、難しいかも知れませんが、
  手を出さずに、見守ることができるゆとりを、私たち大人が持たなければ ≧

【もっと基礎的なことを】

 そろばんと書道を教えてはいますが、近年、数字、ひらがな、漢字の書き順を間違える子が多くなってきています。例えば数字の5を横線から書き始める子や、0のようにしたから書く子が増えてきて、目につくことが多くなりました。
 また×算の九九を4・5年生になっても間違える子がたまにいます。ひき算でも12-4を6と間違える子もいます。
 これらは一例に過ぎませんが、近ごろは基礎的なことを軽視する傾向があるように感じられます。総じて基礎的なことというのは、わかったとか、覚えたとかいうだけで役立つものではありません。繰り返し、繰り返しの訓練によって正しく身につくものだと思います。
 また近ごろ、グローバル化という名のもと、幼児・小学校低学年から英語を習いにいく風潮が見られる昨今です。小学校においても低学年から英語が教科となります。
私は日本の言語、文化を軽視し?(基礎的なことをいい加減にしておいて)高度?とはいいませんが、世界各国の風潮に合わせるという今の文部科学省や政府、政治家には疑問を感じます。学習のことだけでなく、生きるということにおいても同じように感じられることが多くあります。
 遡(さかのぼ)ること一昔ほど前から、マスメディア・教育界はもちろんですが、脳の活性化、脳トレブームで見直されてきています《読み・書き・そろばん》なんていうと、随分古い言葉のように思われますが、これが生きていくために必要な基本的、基礎的であることの一端を示したものであります。
 “聞く・話す・読む・書く・教える・計算する”というのは、正に生きるための最低必須条件であるのに、まず人の話を真剣に聞く姿勢が出来ていない子がたくさんいます。聞くことの習慣がない子は、自分の気持ちを相手に伝えることができません。
そういう子は、人と話をするとき、また大切なことを話すとき、極端に声が小さくなります。言葉で伝えることに自信がないのでしょうね。
  『子どもの気持ちを汲(く)んでやることはとても大切です』 でも大人が先に口を出しだのでは、子どもの話す訓練にはなりません。
 日々、子どもだちと接していて、学校の勉強は勿論ですが、生きて行くための基本的基礎的なものをもっともっと大切にしていただきたいと痛感しています。
保護者の皆様、子どもたち、そういうものにしっかり目を向けてほしいと思います。

【狩猟民族と農耕民族との違い】

一般的に日本人の物の考え方が一方的に成りがちであると言われます。
そのことを説明するのに、元来が農耕民族であるからだと辻棲(つじつま)が合います。
 農耕民族が生きるためには、皆で協力する調和と集団中心の縦社会が必要だったのです。異質なものに対しては排他的であったと思います。国境線を持たない島国の孤立性や、単一民族国家であったこともその傾向に拍車をかけだのではないでしょうか?そのような歴史を通じて、日本人は周囲の動向を窺(うかが)、真似をして生活するという習慣が出来たのです。
 一方、欧米の狩猟民族は、周囲の人々と同じことをやっていたのでは獲物にありつけず、それぞれが工夫をする必要があり、必然的に個人主義、個人の権利が浸透していったと思われます。
 農耕民族も、狩猟民族も、それぞれが文明が発達し、交流が盛んになり、境界線が曖昧(あいまい)になってなってきました。文化と文化が交わるときに摩擦が生じるのは仕方のないことではないでしょうか。
 いずれにせよ、本当に色んな意味で価値観が多様化している現在、柔軟な考え方を持てる方が有利でもあり、社会からも要求されます。自分以外の価値観も認めることのできる懐の深さが大切となってきます。
 もちろん、結論を一つに絞らなくてはいけないことに関しては、この話は当てはまらないでしょう。                        
 しかし、上記の文章に対して、日本人を農耕民族と決めつけることに反論はできます。そもそも、日本が農本主義になったのは律令体制以来であり、古来から農耕民族であったと言い切ることはできません。原始時代の大昔は、狩猟民族であったと思います。
 そして、島国の孤立性というのも、昔から中国大陸や朝鮮半島と強い関係があり、日本海や東シナ海が文化や物の搬送に利用されていたことは孤立性とはかけ離れていると思います。
 さらに言えば、単一民族国家というのも、明治以降の植民地支配の歴史や、その延長線上にある在日外国人を考えれば否定できるのではないでしょうか。
 視点を変えることにより、話をまったく別の方向に展開させ、こじつけることもできるのです。

『できる』と『わかる』は違うもの

“似て非なるもの”、「わかる」と「できる」。
 人間はつい自分に都合よく考えるもので、わかってしまうと、できるのではないかと勘違いをしてしまいがちです。この二つがイコールで結ばれるものならば自動者教習所での厳しい訓練がなくなるかも?・・・ アクセルを踏めば進み、止めたければブレーキを。方向の調節はハンドルで。運転免許をもたない人もオートマ車ぐらいなら見よう見まねで運転できるような気になることがあるのではないでしょうか。ところが実際はそんなに容易でないのは当然です。 しかしあと何年か先には、完全な自動運転の車が販売されそうな気配ですが? もっと些細な事においても本当にできるようになるためのトレーニングを疎(おろそ)かにしてしまい、結果として身につかずに終わることは少なくないと思われます。
 そろばん学習者はやり方が分かっているだけでは十分でないと身をもって知ることになります。一通りの運珠(うんしゅ)を学べば段位の見取算だって計算することは可能でしょう。ただし、そこまで辿(たど)り着くには大変な時間と根気が必要です。また検定試験一つを例にとっても、限られた時間内に一定題数を正確に計算する、そのためには並々ならぬ努力が欠かせません。この経験を子どものうちにしておくことは、それ以外のことにも大きく生かされることに違いありません。 自分に真の能力をつける、そこには相応のトレーニングが必ず求められることを心構えとして持っているのは、目立たないようでとても大切なことだと確信します。
   「わかる」では終わらない。
   「できる」までとことんやる。
    この習慣は大きい。

 「わかった」と思うと、もう「出来る」ような気がします。しかしそれは 大きな間違いです。 そろばん学習は必ず「できる」ところまでしっかり 繰り返しトレーニングをします。そうしないと次のステップに進めないか らです。「できる」という本当の力をつける習慣と心掛けは、他のものに もきっと大きな影響を与えるはずです。

【客観的視占を持つ】
客観的とは:自分だけの考えにとらわれないで外部から公平にみるようす

 自分自身客観視する視点を持つことは必要なことですが、大変難しいことですね。
社会の一員として生活していくためには、周囲からどのように見られているかを意識することも必要大切かも知れません。
 日本は法治国家です。法治国家で暮らすからには、好むと好まざるとに関わらず、法に触れることは論外ですが、法に触れずとも、多くの人に避難されたり、周囲を不愉快にすることは避けるべきです。個性的?なのは悪いことではありませんが、それが世の中のプラスの方向でなくてはなりません。
 「現代の常識は未来の非常識」、「日本の常識は世界の非常識」などと言われるように、時代や地域によって、人々の評価や価値観は変わります。いつの世も『真理』は変わりませんが、『心理』は変わるものです。《少し宗教的になっている感じがしてきていますね?》
 自己を正しく評価すすることは大変難しいことです。心理学によると、多くの人が無意識の中で潜在的に自分自身を過大評価しているそうです。ほとんどの人は誰よりも自分が一番大切と思っているわけですし、何事においても自己を正当化したくなるのは仕方のないことかも知れません。正しい状況判断が出来ることは難しいものです。
 他人に不愉快な印象を与えないように、謙虚に振る舞う外面は必要ですが、内面ではある程度の自己評価を持たないと幸福感が味わいにくくなります。必然的に自己防衛本能として、部分的に自信過剰になります。そのような人が以外に多いと感じます。
 一方、中にはまったく自信が持てず、必要以上に自らを卑下している人もいます。それが本気であっても、謙虚なつもりであっても、周囲に良い感じを与えません。はっきり言って見苦しいものです。ましてや、指導者と名乗る人たちが専門分野で自信を喪失しているのは、許されることではありません。
 自信過剰であっても、自信がなくても、どちらも良くないのですが、その解決方法はただ一つ。真の自信をつけることです。真の実力がつけぱ自信過剰な部分の埋め合わせが出来ることになりますし、自信のない部分も補うことができるはずです。
 実力をつけるための努力をすることは勿論ですが、難しいことですが自己分析と状況把握が必要です。それが正しく出来ていないと、努力が見当違いの方向に行ってしまい、何の効果も上がらないことになってしまいます。客観的視点を持つことが絶対に必要となります。

【話すということ】

 人間が意思を伝える一般的な手段は、「話す」「書く」の2通りしかありません。
身振り手振りはもどかしいですし、手話は外国語を覚えるのと同様の努力が必要です。テレパシーとなると完全に特殊能力になります。
  「話す」ことは、誰もが日常的に行うことです。家族や親しい友人との会話で、緊張するという人はあまりいないでしょう。
 ところが、「人前で」という条件がつくと、途端に平常心を失う人がいます。私も以前はそうでした。初対面のグループで自己紹介をするような場面があると。順番が近づくにつれ、落ち着かなくなり心臓がパクパクと高鳴るのです。
  『巧みな話術』を身につけることは多くの人が憧れます。話すことが大きなウェートを占める職業においては、大きな武器となります。《口から先に生まれた》という表現があります。これは褒め言葉ではありません。ロ数が多いだけで内容が伴っていなければ、単なる雑音であり、周囲を不快にするだけです。たとえ、ロ数が少なくても、言葉の一言ごとに重みと味があれば、人をひ惹きつけることができますが、これは大変難しいことです。
 素晴らしい内容も、話し方が下手ならば台無しです。逆に、大したことのない話題でも、話術によって命が吹き込まれることもあります。
 人を惹きつけるには、「笑わせる」か「感動させる」かです。どちらかと言えば、笑わせることの方が簡単です。可笑(おか)しいことを考えることは大変ですが、世の中には楽しく笑えることがいくらでも転がっています。笑いに著作権かあるわけではないので、人の言ったことを拝借することもできます。テレビなどは笑いの宝庫です。
 笑わせることは、極端ですが数秒もあれば十分です。一方、「感動させる」にはストーリーが必要なため、ある程度の時間が必要です。
  「話す」能力を磨くには、場数を踏むしかないと思います。最初から話し上手という人は稀であり、多くの人は試行錯誤を重ねながら徐々に人を惹きつける話し方ができるようになっていくのではないでしょうか。何事にも言えますが、数多くの失敗を越えた先に成功があるのであって、失敗せずに成功を得ようとするのはあまりにもムシが良すぎるのではないでしょうか。
 そして、上手な話をするのに忘れてはならないことは旺盛な『サービス精神』と《話す人の人間性》ではないでしょうか。

【数字で表せると便利ですか?】

 物事には数字で表せることが出来るものと、そうでないものとがあります。すべてが数字で表せれてしまうと、余りにも物事が明確になりすぎて不都合な部分が出できますし、逆にすべてのことが数字で表すことが出来ないと、これはまた、わかりにくくて不便になります。
 珠算関係者であれば、珠算1級’とか、珠算6級と言われれば、そろばんを使用した場合のおおよその計算力がわかります。しかし、そろばんに携わったことのない人にはわからないと思います。数字が少ない方がハイレペルであるということは、他の分野の級位がそうであることから予測出来ることですが、その程度だと思われます。 100mを15秒で走るとか、20kgのものを持ち上げるというのも、体験や経験を通して感覚的に理解できます。「私のお父さん、背が高いんだよ」「どれくらい」「2m!」「うわっ!」というように、数字で状況を表すことは理解度を深めるための有効な手段です。
 一方、数字で表せないものもたくさんあります。生徒が、「うれしい」などと言うと「どれくらいうれしいの?」と聞くことがあります。うれしさにも程度があり、「ものすごくうれしい」は「ちょっとうれしい」よりもうれしさの度合いが大きいことには間違いありません。しかし、うれしさを数字で表すことはできません。
 同様に、痛さ・楽しさ・苦しさ・悲しさ・寂しさ・おかしさ・怒り・眠気・空腹度・恋愛感情など、無数にある心理状態は、数字では表すことができません。
 人の痛み、悲しさなど、わかる人間になるように努力すべきかもしれませんが、実際には数値化できないので想像するしかありませんし、それはそれで良いと思います。 正直度・真面目度、人間としてので器の大きさなどが数値化されたら、本当に大変なことになると思います。駆け引きや脆弁はまったく通用しません。今の時代、現在とは、常識も価値観もまったく違ったものになることでしょう。

教育の荒廃

 近年、学校教育問題が大変注目、問題視されています。国の将来を担う子どもたちに対する教育は最も重要なことの一つですが、大変な問題になっているというのは、憂慮すべき事由が山積みされているからです。
 教育は二つの分野に大別することができます。一つは学力、そしてもう一つは人間性です。どちらも大切なことですが、現代においては両方共に、由々しい事態となっています。
 以前にも書きましたが、私たち珠算指導者も教育の一端を担っているわけです。全国の小学校の数と珠算教室の数は、在籍人数こそ違うもののほぼ同数と言われています。公教育よりも私塾の方が制限がない分、やりやすい面もあります。十分に特色を発揮して、日本の教育に貢献しなければならないと思っていますし、また、それが珠算教室の存在価値を高めることになると思います。そのためには珠算教師の質の向上が絶対必要条件となります。
 以前の学校教科書の薄さには驚きました。ゆとり教育という名のもとに、小学校低学年だけでなく、3・4年生用を見ても、表現の仕方は悪いですが幼児の絵本のようでした。私たちの子どもの頃でさえ、新しい教科書を受け取ると、極端ですが、授業でやる前にすべて読んで理解してしまう友人もいました。教科書の内容がやさしくなって、長時間かけて授業を行うことに何の意味があったのでしょうか。難しい部分を削除し、学習内容そのものを大幅削減していたのですが、薄い教科書になるのも当然だったといえます。このように考えるとゆとり教育の失敗で子どもたちの学力低下は、なるべくしてなったように思えてなりません。その反動で、今の教科書は内容豊富ですが、授業時間数はほとんど変わりがないので、指導する先生はもちろん子どもたちも大変です。私から言いますと可哀想です。
 この半年ほど、悲観的なことばかり書いてきましたが、一人でも多くの大人が現代の日本の教育現状に危機感を持ち、真剣に取り組まなくてはいけないと強く感じているからです。 《教育は百年の計》と言われます。良い教育がなければ世の中は良くなりません。国際社会においての競争力も弱まります。アジアにおける日本政府の行動言動を見てもわかるように、次世代以降が、幸せに生きることが難しくなるのではないでしょうか。
 一人や二人が声を大にしたところでどうにかなるものではありませんが、一人ひとりが意識を高めていけば、大きな力になることができるでしょう!!
   ≪言う易< 行うは難し!≫

気がある人間に

 「気」という漢字は小学校1年で習いますが、以前(昭和24年まで)は「氣」という旧字体で書いていました。語源(どのようにして今使われるようになったのかという元の意味)は、蒸気が立ちのぼる形を表した「气」と「米」とを組み合わせてつくられ、米を蒸(む)すときにできる蒸気を表しています。
 蒸気は、ふつうは目には見えない強い力があり「目に見えない力」「すぐれたはたらき」という意味に使われます。「目に見えないものの動き・ようす」の意味もあり、さらに 「目に見えない心のはたらき・ようす」の意味にも使われています。
 気体・空気・天気・気配・気力・元気・気品などという言葉をすでに習っているように、毎日の生活と深い関係があり、この《気》が、つかない生活は心が暗くなりそうです。
 「遣(や)る気」の「遣(けん)」は遣(つか)わすという意味があり、奈良・平安時代の遣唐使という言葉は社会科で習います。
 何をするにしても、この「やる気」があるかないか、「やる気」を自分でどう持つかですべてが決まるといってもいいと思います。
 最近よく耳にすることですが、自分にはむずかしくて出来ない、と初めから「やる気」のない人もいます。出来るか出来ないかは最後まであきらめずにやってみる気があるかないかで決まることです。出来なかってもいいじゃないですか! それまでがんばってきた過程は、必ず役に立つはずです。
 負けん気を持ち、勇気を出し、元気いっぱい根気よく、こつこつと、短気を起こさずにがんばれば病気にもなりにくく? 家族みんなががんばり合って、和気あいあいと過ごせるようになるのではないでしょうか。
 自分の「やる気」は、人に勇気を与え、電気の明かりが暗い道を照らすように、人の心をも明るくさせます。
 これからの皆さんに期待しています。物事にくじけない強い意気=気概(きがい)
をもって気力を込めてがんばろうではありませんか。応援しています。

《日本の教育の荒廃》【アメリカでは】

 優秀な生徒は”スキップ”といって学年を飛ばすことができる制度は多くに知られています。
 その逆の留年ですが、1999年からカリフォルニア州では小中学生にも適用されています。9月進級時に当該学年の実力がないと留年となるのです。そのため、制度適用以降は補習授業やサマーサークルなどが大盛況とのことです、ちなみに、アメリカの教師は夏休み3ヵ月間は給料がないと聞いています? 7・8年前のことで現在はどのように改革されたかはわかりませんが? 以前は補習授業やサマーサークルがアルバイト?になっているとのことでしたが。
 そんなアメリカの制度が全面的に良いというものでもありません。留年を宣告される小学生は傍(はた)で見ていられないほど落ち込み、回復不可能な精神的なダメージを受け、結局不登校や中退へとつながってしまう確立が高いようです。
 もし、飛び級制度や留年制度を、日本の学校環境に導入しようとしたらどうでしょうか。生徒への差別行為ということで、保護者や教師から猛反対の声が上がることが予測、予想されます。飛び級や留年は、アメリカの社会体制の厳しさの表れの一端です。アメリカは自由の国と言われていますが、一方では、甘えさせない大変厳しい面も持ち合わされているのです。
 アメリカが世界に誇る?エリート教育と実力本位の教育制度は、少数の手に権力を握られる危険性があるとも考えられます。それよりも、日本のように、どの分野でも通用する平均的に高い学力水準を得られる平等教育?の方が良いと言う人もいます。それぞれが一長一短ではないでしょうか。しかし、日本のトップと言われている東京大学でさえ、世界ランクはどうでしょうか。詰め込み主義で偏差値中心の教育。何の特徴、取り柄もない学生ばかり輩出しているようにも思えます。
 とにかく、言えることは、日本の教育が大きな岐路に立たされているということです。今のままでは、決して良い方向には進みません。大変難しいことですが、学校サイドも教育者たちも私たちも転換しなくてはなりません。
 教育者というのは、学校の教員だけではありません。私たち珠算・書道指導者も保護者の皆さんもまた教育者の一員です。多くの人が高い倫理観と熱意を持って真剣に教育に立ち向かう以外に活路は見い出せないのではないでしょうか。
   『たかが珠算(そろばん)、されど珠算(そろぱん)』 です。
 今ごろ何を言っているのだとご指摘を受けそうですが、そろばん教育の本質を私自身が、保護者の方、子どもたちに指導していかなくてはならないと思っています。
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