双葉学院 天美教室(あまみきょうしつ)

つれづれの想い

子どもの遊び文化の伝承と創造

 高度産業社会化と都市化の進行のため、子どもたちの遊ぶ時間と遊び場が奪われ、子どもを取り巻く環境が大きく変わりました。野山や川などの自然の中で遊ぶことが少なくなり屋内で過ごす子どもたちが増えています。また、少子化により年上、年下の友だちと遊ぶ機会もほとんどなくなり、子どもの遊び場は孤立化してきています。そのような中でも、子どもの遊び場について考えたところでは、子どもたちが自分たちの空間を見つけ、そこを拠点としてしたたかに遊ぶ姿がわずかながらあるようです。
 それでもやはり、全体的な傾向としては、子どもたちの生活にゆとりがなくなり子どもの遊び場は衰退してきています。
 現在では、子どもたちによって生み出され受け継がれてきた子どもの遊び文化も失われようとしています。あるいは、季節や行事にまつわる遊び、子どもならではのルール、自然を生かした遊び道具の工夫など、長い時間をかけて少しずつ受け継がれてきた子どもの遊び文化は、もうほとんど失われてしまったと言ってもいいかもしれません。
 このような事態を引き起こしたのは大人の責任ではないかと思います。例えば川の護岸工事はコンクリートで堤防を固めます。これでは生き物も住めないし、子どもが遊ぶのには危険がいっぱいです。川も汚れて泳げるような状態ではありません。
 大人たちは、今、驚異的に自らの責任で子どもの遊び文化を復活させる努力をしなければなりません。まだ残っている子どもの遊び文化を子どもたちが受け継ぎ、また新たに子ども文化が生まれるような条件づくり、環境づくり、体制づくりをしていく必要があります。これは容易なことではありませんが、大人たちが意図的に取り組むべき重要な課題ではないでしょうか。

積極的に行動しましょう
境遇は自ら造るものです。自分にはチャンスがないと嘆くだけでは、何の向上も進展も望めません。まずは勇気をもって行動することを心がけましょう。

『親の子育て』への支援が必要?

 社会が大きく変化してきた現代は親による子育てが難しい時代です。これまでのような母親を中心とした子育てを変えて、今の時代にあった子育てができるような体制にしていかなければならないでしょう。
 家族形態も変化し、核家族も8割近くになり、最近ではひとり親家庭が増えつつありまた、共働き家庭が非常に多くなっています。地域社会も変化して「地域の子」として育てるということがなくなってきたような感がします。
 現在では親自身が親になる前に子どもと触れ合う体験が少なく、子育てや子どもの成長について学ぶ機会がなくなりつつあります。またその一方で子育てについての情報が氾濫して親が独自で選択、判断する力がなく混乱しています。
 核家族化の進行と地域の変貌によって、親は孤立した中で子育てに悩んでいるのが実態ではないでしょうか。また性別の役割分業がまだまだ根強く、父親が仕事で子育てに参加できないという実情もあると思います。
 このような中では親の子育てを支援する体制を作り出す必要があります。子どもの成長・発達について学ぶ機会をつくったり、子育ての悩みを相談できる場が必要になります。保健所や子ども家庭センターなどでは子育ての相談に応じています。保健所や幼稚園でも子育て支援のネットワークづくりが進んでいます。また、子育てをしている親同士が励まし合い、子育てを共同でするサークルも生まれています。
 親が親として自立していなく、親としての自覚が少ない現代では、子育てを親だけに押しつけるのは大変難しく、子育てへの社会的支援が絶対に必要となっています。
 しかし、ここで忘れてならないのは、子育てが子どもの自立を支えることであるのと同じように、子育て支援についても、親の子育てをあくまでも「支援するだけ」という点です。親としての責任を奪うことがないようにすることが重要です。
 でも、もっと重要なのは、最近、特に、この人が子どもの親?と思われる人が多く見受けられます。親は親らしく、自立し、自信をもって子育てをすべきではないでしょうか。

失敗から学びましょう
なぜ失敗したかを妥協なくきちんと調べておくことが、次の飛躍に必ずつながります。日ごろからその習慣やシステムを作りましょう

『子育て』とは子どもの自立を支えること

 子どもを自分で判断して行動できる人間に育てるためには、子どもにも自分で考え判断するチャンスが必要です。
 乳幼児は自分で判断することは無理だと考えている方もおられると思いますが、そのようなことはないようです。子どもは生まれたときから外界に自ら働きかけて自分の判断をつくり始めます。ですから、親が乳幼児のときから「幼いけれど独立した人間」として子どもと接していくことにより、子どもは自分なりに感じ、考えたことをもとにしながら行動するように育っていきます。そして、子どもとの地道なかかわりを積み重ねることにより子どもが自分なりに感じ、考えたことをもとにしながら行動しているのが見えてきます。
 例えば、子どもがお菓子を買ってほしいと要求したとします。そのとき親は、頭ごなしに怒るのではなく、「今、食事をしたばかりだからダメ」と理由を言って親の判断を子どもに伝えることが大事です。そして、子どもが親の言うことをどのように聞いているのか納得しようとしているのか、よく観ることが大事だと思います。しかしこのような親の対応の繰り返しの中で、子どもも自分なりに納得するようになります。そしてどのようなときに納得するのか、どのようなときに簡単に納得せずお菓子を買ってほしいと強く要求した方がいいのか、などと考える力を身につけていきます。つまり、状況に応じて自分で判断して行動できるようになっていくのではないでしょうか。
 子どもの自立を促すには親の自立した姿勢、つまり親の判断が問われることになります。そういう意味では親は子どもを育てながら、親として自分はどう考えるか悩みながら、親としても育っていくことになるのです。
 「子育ては親育ち」と言われる所以(ゆえん)です。

《平凡の非凡》 基本の徹底をはかりましょう
良き人生を歩むためには、常に当たり前のことを積み重ねていかなくてはなりません。平凡なことを徹底して行う中に飛躍のチャンスは潜んでいます。
「平凡の非凡」を常に心にとめて生きていきたいものです。

『よい子』は本当によい子か?

 親は子どもに「よい子」になってほしいと思っています。その場合、「よい子」とはどのような子どもでしょうか。親に「どんな人間に育ってほしいか」と聞くと「やさしい人」「幸せな家庭をもってほしい」「学校の成績がよくなってほしい」という答えが多くあり、「社会に役立つ人間」「社会に貢献するような人間」になってほしいという答えは少数だと思います。これも現代社会の特色の一つと言えるでしょう。
 「どんな人間に育ってほしいか」という「めざす人間像」が多様化して、個人主義的になってきています。これをどう考えるかは難しい問題です。私は、めざす人間像として「自分で考えて行動する人間」と言う人間像をかかげて見たいと思います。この人間像であれば「めざす人間像」としては、それぞれの立場を越えて共通理解していただけるのではないでしょうか。
 乳幼児期の子どもも自分の思いを持って生きています。子どもは親の言うとおりにはなりません。そこで親として子供を褒めたり、怒ったりしながら子どもに親としての願いを実現していく事になります。
 ここで親は次のようなことに注意する必要があると思います。親が考える「よい子」の枠の中に子どもをはめ込んでいないかどうか、また、「よい子」とは「親にとって都合のよい子」になっていないかどうかということです。子どもが自分で感じ、考えて、行動しているのではないのか、怒られないように行動しているだけではないのか、ということを見直してほしいのです。子どもが不十分でも自分なりの考えをもって行動しているのか、自分の考えで行動するように育っているのか、子どもの育ちの過程を見つめてほしいと思います。
 このように考えると「よい子」の問題が見えてきます。「よい子」は本当によい子ではないのです。自分で判断せず他人の顔色を見て行動している場合が多くあります。自分が「よい子」として育ってきた人は、次のように言っています。
 『よいことをしていないときでも、「よい子」と褒められました。このことが以外と大きなプレッシャーとなり、言いたいことがあっても言えない。やりたいことがあってもやれない子になってしまった』と。「よい子」は「よい子」の枠の中で自分を出せずに無理をしているのではないでしょうか。
 だからといって「悪い子」に育てよう、と言うのは言い過ぎになるでしょう。そこで『「よい子」ではない子』に育てるというぐらいの気持ちで育てていってはどうでしょうか。
 つまり「よい子」になってほしいのですが、「よい子」でなくてもいい、「自分なりの考えで行動できる子ども」に育てていってほしいと思います。

もっとも大切なことは『人間性』

 人間性を高めることは最優先されなければならないことの一つです。また、一言で人間性と言いましても多様な要素を含んでいます。誠実さ、思いやりを持ち、気配りができ、場の空気を読み、周囲に不快な思いをさせない・・・・等など、大切なことです。自分自身の願望よりも、相手または周囲の人たちの心地よさを最優先できるような奉仕の精神を心掛け、実践できることが、高い人間性と言えるのではないでしょうか。
 これらは、生まれながらの資質というよりも後天的な親のしつけや、子どものころの環境によって形成される部分が大きいものです。しかし、知識や教養と同様に、短期間で身につけることは大変難しいものです。
 人間性が大切であるということは、高い人間性の対極を考えてみれば容易に理解することができます。凶悪犯の存在などは決して許されるものではありません。そこまで極端でなくても、まったくの自己本位で、協調性がない人と接することは気分の良いものではありません。
 幸福かどうかは、客観的な視点ではなく主観で判断します。しかし、4月号、5月号でも触れた、顔立ちも、スタイルも、頭の良さも、そして人間性も、すべて主観ではなく、客観的な判断の方が正しいと思います。主観が正しいと言い張ることは”一人よがり”。他者の幸福な姿を見て、あるいは幸福になる手助けをして、自らも幸福な気分を感じるというのが望ましいことです。これらを意識する事なく、自然にできることが理想ですが、そう簡単なことではありません。
 多くの善良な人々は、法治国家の下で法律を守って生きています。そんな人ばかりならば住みよい世の中になるのでしょうが、現実はそうではありません。極端な言い方をすれば、親が子どもを送り迎えするのも、留守の時に戸締りをするのも、悪い人間が存在するからではないでしょうか。本当に残念なことです。
 幼児期から、家庭教育、地域教育、学校教育などで『正義』と『真実』をくどいほど徹底的にたたき込むことこそが、多くの人の幸福につながることになります。”悪いことをしてはいけない”ということは、もっともっと強く多く指導されるべきです。
職業倫理というものはあらゆる職業に存在します。どのような職業であろうと人間性は高めるべきでしょう。ところが、人間性だけでは不十分で、専門知識と専門能力が必要となるのです。もちろん珠算・書道指導も例外ではありません。人間性の高さと指導者としての能力は両輪のようなものであり、どちらが欠けても正常ではありません。
 珠算・書道学習に限ったことではありませんが、近年は本物志向の傾向が強くなっていることを強く感じます。上辺を取り繕っていたのではこれから先は通用しません。保護者の皆さんから「この先生だったら安心して任せられる」という評価を得られるような指導者にならなくてはいけないと思っていますので、よろしくお願いいたします。

世の中は病んでいる

 連日、どこかで事件が起きています。他人どころか、時には仲間や身内まで騙し傷つけ、大切な命さえ奪ってしまうことさえ。残忍な事件が起きるたびに「こんな事件は二度と起きてはいけない」と多くの人が思いながら、結局は同じことの繰り返しです。
 人間関係のもつれで感情的になったり、他人の金品を奪うことが目的で強い事件が起きてしまします。捕まった犯人が理由を問われ、「ムシャクシャしたから」とか「カッとして」などと語っているのを聞くと何ともやりきれません。
 こうした不安定な社会を望んでいる人はいないでしょう。多くの人がもっと安全で快適な世の中になることを希望しています。それが何故、こんな世の中になってしまったのでしょうか。その大きな原因として、人間の耐性の低下。耐性、即ち我慢する力がないから、他人と協調できずにぶつかるのです。
 乱暴な言い方ですが、昔は大人が価値観を子供に押しつけることが暗黙のうちに容認されていました。そのことが全面的に正しい事ではありませんが、一般的には経験豊富な大人のほうが子どもより正確な判断のできる確率が高いのです。
 しかし、近年は「子どもの人権」だとか「個性の尊重」などという言葉が一人歩きし拡大解釈され、それを隠れ蓑(みの)に何でも許される時代になっています。最近は自らの欲望のままに権利を主張するばかりで、相手の気持ちも考えることが二の次になってしまっている人が増えています。そんな人間が増えれば、衝突が多くなるのは当然です。
 一体、いつからこんな時代になってしまったのでしょうか。現代の親たちが育った時代は、日本はすでに豊かな国になっていました。消費することが美化され、使い捨ての時代であり、物もあふれ、欲しいものが簡単に手に入り、時代は流れ、そのような環境で育った人間が親となっています。「少なく生んで大事に育てる」といった傾向となり、子どもたちはあたかも王子様?お姫様?のように大切に育てられました。
 ある種の甘やかしも問題ですが、他方では、放任も問題となっています。24時間開店しているコンビニなどもあり、深夜でも中高生が遊んでいるようです。親が子どもを管理できなくなってしまいます。ハワイなどでは12歳以下の子どもたちだけで留守番などをさせることは法律違反で見つかると、親は逮捕されます。保護者は文字通り、子どもたちを保護する義務があるのです。
 日本では、父権の喪失、女性の社会進出など、家族形態が変化し、家庭教育が崩壊しているところもあります。この世の中の社会の乱れと強い相関性があります。
 病んでいる世の中を改革するには教育の力が絶対に必要です。珠算・書道指導も教育の一分野です。それも、現代の子どもたちに最も必要な反復練習が主体です。
 もっともっと多くの子どもたちが、珠算・書道を習うような環境作りにはげんで、自己研鑽し珠算・書道の指導に更なる愛情をもって取り組まなくてはと思っています。

人それぞれ

 4月2日に生まれた人も、翌年の4月1日に生まれた人も、皆同じ学年ですね。背の高さや体重、もちろん顔や性格も違います。走るのは苦手でも、鉄棒や跳び箱の得意な子。算数は好きだが国語はキライという子もいます。
 気持ちの良いあいさつをする子、友だちと元気に飛び回る子や、静かに本を読んだり、人の話に耳をかたむける子と、時間の過ごし方も人それぞれです。
 ところで、人は誰しも相手の欠点ばかりが目についたり、いつまでもこだわったりしますが、特に子どもは日に日に成長し、良い方向へ逞(たくま)しく伸びていきます。お手伝いでも、ちょっとしたはげましと認められたという喜びが向上意欲を起こさせ、更に成長を高めます。
 人はそれぞれ、得手、不得手や伸びる時期が違います。春咲く花もあれば、真夏にバッと散ってしまう花。秋までじっと待ち、鮮やかな色と薫りに包まれる花もあります。冬の厳しさと重みに耐え、可憐にさく一輪の花を見つけると、精いっぱい生きる姿に勇気が湧きます。
 人によっては何も好き嫌いがあります。温室で手をかけられる花もあれば、野辺にそっと咲く小さな花もあり、感じ方もさまざま、人それぞれです。
 種をまき肥料を与え、太陽の暖かさに接し、雑草を除き、しっかり根を張るように手をかけ、きれいに咲いたねと花に言葉をかけるとさらに美しくなるそうです。
 どんな時でも、何をしていても力いっぱい頑張る姿に接すると、あたたかく気持ちのよいものです。そんな時の顔はとても素敵です。良い顔、素敵な顔をたくさん見せてくださいね。
 どの子も良い点をいっぱい秘め、自分なりに頑張っています。改めて一人ひとりの良さを見つめ直していきたいものです。

【がまん】できますか?

 新しい年、2014年(平成26年)も、早いもので1か月が過ぎようとしています。是非、今年は納得のいく1年にしたいものです。
 現代は、《がまん》をすることが苦手な子どもたちが多いようです。《がまん》が出来るようになると、人生の可能性が大きく拡がります。つらいと思われる《がまん》も習慣になれば、《がまん》とは言わなくなります。そうした人間性を身につけてほしいと思います。もちろん、身につくまでの《がまん》は絶対に必要です。
 おそくなりましたが、今年のキーワードとして《がまん》というのはいかがでしょうか。
 今の世の中、先ほども書きましたが、大人も子どもも《がまん》が欠けている人が増えていることを強く感じます。
 日本の社会が健全な子どもたちの育ちにくい環境に向かっているような気がしてなりません。《がまん》出来れば社会は大きく変わるし、人間関係もよくなるでしょうし、犯罪や争いも激減するのではないでしょうか。
 誰も好き好んで《がまん》をしようとは思わないでしょう。《がまん》の少ない生活の方が幸せには違いないのです。すべての人が《がまん》のない生活が出来ればそれに越したことはありませんが、どう考えても不可能だと思われます。誰かが《がまん》をしなければ社会は成り立ちません。《がまん》のできない人のことを『我が儘(わがまま)』といいます。実際、我が儘な人が増えてきています。
 この《がまん》ですが、我が儘な性格の人たちにとっては相当ストレスがたまります。他人のために《がまん》して、本人が被害を被(こうむ)るのでは割が合わないと考える人もいるでしょうし、また、周囲に《がまん》を強(し)いて、自らの考えを通す権力者?もいますが、はっきり言って人間的な価値はありません。
 《がまん》を昇華して、ストレスをためないような生き方こそが、現代人に最も必要とされていることではないでしょうか。
 そろばん・しゅうじ教育を通して、《がまん》の大切さを伝えたいと思います。
※おわび※ 文面に がまん という言葉が多く出ましたが がまん してください。

【物事の上達の三条件】

 物事の上達には条件があります。まず1番目は
努力 そろばんに関して上達を測定するものとして検定試験や競技大会があります。当教室では、進度テスト、種目別速算問題を実施しています。検定試験は合格基準という物差しが競争相手になり、競技大会では他の選手が競争相手になったり、自分自身の過去の点数や練習点が競争相手になったりしますが、いずれにしてもそれまでの努力の量や質が上達度合いの多くを決定すると言えます。
次に素質。 人それぞれ顔が違うように、得意分野と不得意分野も人それぞれです。歩幅の小さい人が大きい人と同様に歩くには足の運びを速くするといいのですが、歩幅の大きい人に足の運びを速くされると、もうお手上げです。しかし、世の中はなかなかうまくできていて、歩幅の大きい人が足の運びを速くするためには、歩幅の小さい人の何倍もの努力を必要とするようです。さらに頭のなかのこととなると運動と違って素質の差はぐ〜んと縮まってきます。というのは、努力の違いという自分の心意気でどうにかなるものをどうにもしないという「弱さ」に目を向けるのが嫌で、「素質」に技術の差の原因を押し込めてしまう人がとても多いことと、そして、その人たちの大半がこの事実に気づいているということがわかるのです。科学者エジソンが言っています。
《成功には1%の才能と99%の努力が必要だ》
 上達の条件は、「大きな努力」と「わずかな才能」の以外にまだあると思いますが、もう一つだけ挙げてみましょう。
 それは、〔臆病な気持ち〕〔慎重な気持ち〕です。意外と思われるかも知れませんが、上達には努力に対して自信を持つことと同じくらいの程度で「臆病な気持ち」を持つことも必要なのです。慎重な人は学校のテストの前にヤマをはったりしないでしょう。それは「ヤマがはずれれば・・・・」という気持ちが先に立つからなのです。だから全部準備するのです。そうすることで努力が増え、不思議なことに素質にも磨きがかかり、上達の三条件につながると思います。 
 

環境を整え、良い環境作り・・・

 世の中の大多数は良い人間です。たぶんそのはずです。また、そう考えなければやってられませんが、近年、少なくとも私の常識では考えられないほどの事件が多すぎます。悪人なんてほんの一部だと思っているのですが、仮に1万人にひとりの割合で悪人がいたとしても、ふつうの人間が一生の間に巡り合う人が平均約5千人から1万人と言われています。ですから、悪人と出会う確率はそれほど高くないはずですが、如何せん人間はたくさんいます。日本国内だけでも1億人以上がいますから、先ほどの割合からいくと悪人は日本だけでも最低1万人いるわけです。と考えると、毎日いくつもの事件が起きるのも、想像するのもいやですが、むしろ当然なのかも知れませんね。
 今年も、殺人、誘拐事件、ストーカー事件などいろいろな嫌な事件が多くありました。毎年、増加しているように思われます。悲しい事件を減らし、多くの人が少しでも幸せに暮らすには、何と言っても教育を充実させることだと思います。幼少時から真実や正義に基づいた信念のある正しい教育を、家庭そして学校で受ければ、人間はまともに育つはずですが、残念ながら、この国の家庭教育及び公教育にそれを期待するのは大変難しくなってきています。それはなぜなんでしょうか!
 話が大きすぎて手に負えないでしょうか?超一流の有名大学出身者で国家の叡智を集めた文部科学省の役人が、長年にわたり研究に研究を重ねて教育問題に取り組んだ結果が現在の情けない状況です。果たしてどれだけの人が満足しているでしょうか。
 話はもとにもどりますが、悪人の定義も曖昧ですが、ズルイことを考えたり、ウソをついたりする人までも悪人と考えると、世の中は悪人だらけになってしまうでしょう。たぶん私もきっと悪人になってしまうでしょうね。
 悪人の1%は、同情の余地もなく非常に許しがたい極悪人としましょう。でも、これらを限りなくゼロにする努力をしていかなければならないはずです。しかし、別の考え方もできます。もともとすべての人間が善と悪の両方の要素を持って生まれてくると考えると、その後の家庭環境や家庭教育、公教育によってどちらかが封じ込められ、他方が表面化するのです。怖いですが、こう考えたほうが自然かもしれません。いずれにせよ、教育(躾も含)が重要であることに変わりはありません。そして子供たちを教育するのは私たち大人です。さらに言わせていただければ、私は、そろばん・しゅうじを通して子どもたちの教育に携わっています。私も保護者の皆様もそうですが、大人たちは、健全な青少年育成のための責任と自覚と愛を持った指導を心掛けなくてはいけません。そのためには、
私たち大人が自分自身をもっともっと磨かなくてはいけないはずです。
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