双葉学院 天美教室(あまみきょうしつ)

つれづれの想い

【本物のプレゼントを】
《物》よりも《能力を引き出すチャンス》を!!

 不景気、不景気と連呼されながらも、今の時代はやはり物質的に豊かだなぁと思います。その証拠の一つに、親の懐具合を気にかけることもなく、子どもたちの所有物への執着心・愛着心が一昔、二昔も前とは(私が子どもだったころに比べて・・・?)明らかに違います。教室での落し物がそれを示しています。えんぴつ・シャープペン・消しゴム・ボールペンetc、自分の物が見当たらなくても、それを探そうとしない、聞きに来る子の何と少ないことか。そのため落し物入れの中は年中満員御礼です。こんな状態は私の教室だけなのでしょうか。
 大人たちが容易に物を与え過ぎることがこんな結果を招いてしまうと思います。ささやかながら”ご褒美(ほうび)”と称して景品を出している私にも警鐘を鳴らさなくてはいけません。こんなに《物》があふれる時代。与え過ぎは、かえって子どもの心を貧しくしているのではないでしょうか。
 形のあるものよりも《能力を引き出すチャンス》こそ、タイミングを逃さずに与えてあげてほしいものです。
 同じ与えるなら「一生なくならないもの!」となれば、ここでは「そろばん」・「しゅうじ」学習を通して身につく計算力・暗算力・集中力・忍耐力などをあげるのは、話の持って行き方があまりにも強引・・・?でしょうね。しかし、そろばん・しゅうじに限らず子どもの隠れた能力を引き出すチャンスを生かすか、そうでないかは、その後の人生を左右するかもしれません。
 《生きて行く力》を身につけさせることこそ、本当の愛情のこもった大切なプレゼントではないでしょうか。
 子どもの喜ぶ顔を見たさに、つい欲しがる物や高価な物を与えがちな今の飽食の時代に、私たち大人が忘れてはならないものだと思います。

【親への予備知識として】

 どんなことでもそうでしょうが、長く続けていくうちには、楽しい時期とつまらない時期があります。これは誰にでもあります。楽しいときには特に問題はありません。放っておいても喜んで通いますから。つまらなくなった時期が問題です。この時期こそが、親の出番です。子どもが「つまらないからやめたい」と言ってきたときに、「じゃあ、やめなさい」では終わってしまいます。上手になるためには、いくつもの≪壁≫を超えていかなくてはいけません。子どもたちは、それで成長していくのです。
 最近の子どもたちは忍耐力が欠けていると言われます。確かに最近はガマンの足りない子が多いです。忍耐力をつけるような躾(しつけ)をしなければ、そうなってしまうのは当然。でも、思うんですが、忍耐力が欠けているのは、むしろ、子どもより親のほうかもしれません。「やめたくなったらやめなさい」では、何をやっても身につきません。
 親が必要と思ったことは、有無を言わせずやらせるべきだと思います。小さいうちはそれでいいと思います。上手になるかどうかは親次第と言いましたが、親の支援がなければ、良い結果は出ないんです。
 子どもの意志を尊重すべき、と言うと聞こえが良く、物分りが良さそうですが、子どもは、価値があるか必要かどうかということよりも、好き嫌いで判断します。好き嫌いは簡単に変わりますから長続きしにくいですね。
 以前にも書きましたが、最近はいくつもの習い事を掛け持ちしている子が多いです。いくつも習ってもどれもモノにならないという場合もあります。私は、一つのことも満足にできないのに、あれもこれもと手を出しても良い結果は得られないと思っています。子どもがどんなことに向いているかわからないので、とりあえず色々なことに挑戦させて見たいという気持ちは分ります。悪いことではないですね。親にしてみれば、何でも出来る子の方がいいですからね。でも、現実には大変難しいことです。
 一つのことを深く追求した方が良いのか、浅く広く色々なことを経験した方が良いのか、と言うことなんですね。これには一長一短あります。
 一つのことを追い求め、一定レベル、と言っても相当高い域ですが、そこに達するとそれまで見えていなかったものが見えるようになってきます。そのことが、他のことにも通じて、生きるうえでの自信になり精神的な支柱が出来るのです。
 一方、色々なことを広く浅く行う人は、表面的には視野が拡がります。しかし、少々かじった程度ではそこそこのレベルには達しません。器用貧乏で終わってしまうのは、まだ良い方で、大抵はほとんど何も身につかず終わってしまうのではないでしょうか。
 「トップになることなんて期待できない、平凡でいい」という考え方はお勧めできません。トップを目指して平凡に終わってしまう人が多い中で、最初から平凡で良いというのは、平凡いかにしかならないのではないでしょうか。

【《子どもの可能性は無限大》】

 教室で目の前の子どもたちの姿を眺めながら、ふと羨ましくなることがあります。
 これからまだ見ぬ未来を溢れんばかりに抱えています。その反面、今のままの世の中では絶対にいけないし、良い方向へ変わっていかなくてはなりません。子どもたちの未来、将来に希望・夢を持つことの出来る世の中、日本にならなくてはいけません。実際に今の大人たちはもっともっと頑張りしっかりしなければなりません。
 子どもたちは、無限の可能性の扉を持っています。ただ、それを開くためのカギは何もしないでは手に入りません。そのためのチャレンジが絶対に必要です。”やれば出来る”、”やる気こそが最大の武器”を実感して、大きな自信をつけることが出来る。この『自信』こそがあらゆる扉のマスターになるはずです。
 いつまでも私は若いつもりでいますが、最近、特にこのように感じるようになってきたのは、やはり歳を重ねてきた証拠だなぁと思う今日このごろです。
 実際、この子はどんな大人になるのだろう?何の職業につくんだろうか?などと考えながら、その子の成長過程に接する機会を得た喜びと共に大きな責任を感じます。子どもたちは、莫大な吸収力を持つこの時期です。彼らにかかわることで知識・知恵のみならず、人格形成に何らかの影響を及ぼすわけですから、そろばん・しゅうじ学習を通して、能力、脳力のみならず、その後に大きなサポートを持つ、前述しましたが、『自信』をつけてもらわねばなりません。
 そろばん・しゅうじ学習で得られる自信、極端ですが、果ては生きる力をつけるとはどういうことなのでしょうか。私は教室でよく子どもに言います。たくさんあるようですが、〔目線を持つこと。失敗を怖がらないこと。あきらめないこと。ガマンしてがんばること。自分で考えようとする気持ち、そして考える事(自考力)。一番大事なことはイメージ出来る脳を持つこと〕
 何事においてもにぶち当たります。壁に当たった時、「がんばる」ということ。自力で乗り越える精神力、それこそが珠算・書道を離れてから最も活かしてほしい大切な能力であると考えます。
 保護者の皆様にお願いしたいことは、子どもたちには、将来の夢・希望・目標を持ち、それに向かって絶対にがんばっていくんだということを時間をかけて話し合い、そのためには、足元を見つめ、小さなことでもコツコツとやっていくことが大きな目標達成には欠かせないことを諭(さと)してください。偏差値アップだけの子どもたちにしないでください。お願いします。
 

《真の教育?を目指して》

 近年、習い事が多様化し、いくつも掛け持ちで習っている子どもが増えてきました。親にしてみれば、何でも出来るようになるに越したことはないわけですし、子どもが興味を持ったことに関して、芽をつぶしたくないとのことで、習わせているのではないかと思います。
 ところが現実はどうでしょう。何ものにもならないケースが大半ではないでしょうか。体は一つですし、自由に使える時間にも限りがあります。あれもこれもというのは、余程特別な能力を持っていない限り、基本的には無理ではないでしょうか。大人をみても、複数のことに秀でている人はごく稀(まれ)であり、一芸に秀でている人ですら少数なのです。
 物事を成すには、多大な努力の継続が必要です。並大抵のことではできません。簡単なことは、誰でも出来てしまうのでは特技には成り得ません。
 子どもの場合、熱しやすく冷めやすいのは普通です。あることを習い、順調の時は良いのですが、逆境になると避難する傾向が顕著です。苦しいことを乗り越える訓練、ガマンをして続けることが、精神的成長につながるのですが、近年は、子どものいいなりになってしまう親も増えてきたように感じます。
 忍耐力も大切といいながら、中には、子どもより先に親が諦めてしまう場合もときどき見受けられます。
 一つのことを、とことんやることにより、そこから派生して得られることの方が、実は大切なのではないのでしょうか。挫折しそうになった子どもを教えるのが親です。愛情を持った厳しさのある親こそ、将来、子どもに感謝されるはずです。
 真の教育は、子どもに施すのではなく、親たちに必要なのかもしれませんね。時代が変わったとよく言いますが、悪い方向に変わってはいけないのではないでしょうか。真理は時代に関係なく不変でなくてはいけないはずです。
 私は、親の顔色をうかがうのではなく、子どもの目、顔を見て、子どもの状態を考え、そして自信をもって授業、教壇に立っているつもりですが・・・・・・。


【ルールを守りましょう】
現在、私たちの社会は、当たり前のことを注意しなくてはならないほど、ルールを身につけていない人が増えています。
一人ひとりが決めごと(規則)を守り、快適な生活を送りたいものですね。


 

【現状把握】

 いつの頃からか、「誉めて育てる」ということが教育の主流になっています。誰でも、叱られるより誉められることの方が気分は良いし、大筋では正しいはずです。
しかし、この言葉を「甘やかす」と混同してしまい、「鍛える」ことを忘れてしまっている人もいます。私の珠算・書道教室に楽しく通っていただくことは大変重要なことですが、それだけではないと思っています。
 今でこそ本当に少なくなりましたが、その昔は、威厳のある父親が絶対的な権力?を持っている家庭が多くありました。友達関係の親子の家庭には失礼とは思いますが、昔の方が、礼儀正しく、躾の行き届いた子どもが多かったような気がします。
 近年、多くの子どもが小さいうちから各種のスポーツ塾・学習塾に通っていながら、スポーツ塾では先輩後輩への礼儀作法、学習塾では学力レベルの凋落(ちょうらく)は目を覆うばかりです。知識を増やしたり、テストで良い点を採るというだけにこだわり、その土台となる根本的な部分に意識が向いていないからではないでしょうか?また中には成績だけが良くて、人間性、社会性が伴わない人も多く見受けられます。
 最近では、中高生はもちろんですが、小学校低学年、園児までが携帯電話を持ち、スマホを玩具として持っています。確かに便利ではありますが、持つことを当然だと思ってしまうところに問題があると私は思います。こんなことを言ったり、書いたりしていると、今の時代に何を言うてんねんと思われる父兄保護者も多くおられると思いますが!
 子どものころから一般的に好ましくない環境におかれることは良くありませんが、反対に恵まれ過ぎた環境というのも人格形成上、好ましくないように思います。
 また、物質的な豊かさと反比例するように、精神的な退化が顕著な昨今です。一昔二昔前の同年齢の子どもと比較した場合、現代の子どもの方があきらかに精神的な年齢が低いように思います。子どもだけではなく、大人までもが幼児化?しているような気がします。近年の成人式における無軌道ぶりは言うまでもなく、若い親たち、さらには、私たちを含めて幼児化傾向にあるような気がしてなりません。
 真面目にコツコツと努力することが「格好悪い」とされる風潮すらあります。世の中が、どこか間違っている、狂っているとしか思えません。
 悪口ばかりを並びたててしまいましたが、子どもには何の罪もありません(?)。そんな子どもを増やしてしまった社会、大人、親の責任です。今こそ、変わらなくてはいけないのは大人たちです。接し方次第で子どもたちを方向転換させることは可能なはずです。また社会も意識転換しなくてはなりません。そして、その社会を構成しているのは個々の人間です。
 ほんの小さなことですが、私たちに出来ることは、そろばん教室・しゅうじ教室に通ってきてくれる子どもたちに、信念を持って教育をしたいというしかありません。

《自己責任》

 毎日これほど全国各地で事件・事故・特に殺人事件が多いと、少々のことなど記憶が上書きされていってしまい、よほどのことでない限り、人々の意識には残りません。
 《自己責任》という意識は一体どこへ行ったのでしょうか。他人に責任があり自分に権利だけがある、という風潮は、子ども社会で自然発生したものではなく、紛れもなく大人たちが植え付けた風潮です。これは、ガマンの出来なくなった子どもたちの増加と、子どもにガマンを教えなくなった大人たちの増加という図式で表すことができるでしょう。また、あるいは、多くの親が教師を良く思わず、教師は家庭の躾(しつけ)に問題があるとし、子どもは表面的に波風が立たないようにしようとする、変に物分りのいい大人にぬるま湯付けの状態に捨て置かれるという形で表れることもあります。(表現の仕方が難しいと思いますが?)
 「バツをつけると子どもたちがやる気を失う」「バツをつけると子どもたちがかわいそう」「運動会の徒競走で順位をつけるとかわいそう」なんていうことを平気で言う親・教師がいますが、そんなことで機嫌?を伺わなければならない関係というのはいかがなものでしょうか?。マルにしろバツにしろ、それは指導者と学習者がそれぞれの行動に対する評価であって、結果を直視することから次への行動が組み立てられるのです。小さな反省と小さな成就感・充実感が子どもを育んでいくということを考えると、たかがマルバツ程度のことで、と見過ごさないほうがいいのではと思いますが、自分の行動には責任を取らせる当然のことが、大きく力強いマルになり、またバツになるのでは。間違えればいくつもバツをつけ、正解したときには、バツの数だけガンバったことを誉めてあげればバツも指導上のテクニックの一つにもなります。【やさしさ】を隠れみのにした事なかれ主義は絶対に排除しなければなりません。
 自己責任の放棄に関して、
いつのころからか、叱られた子どもが口にするようになった言葉があります。
 それは、「ボク(ワタシ)だけが悪いんじゃない。」
いつのころからか、政治家が口にするようになった言葉があります。
 それは、「秘書が・・・」「記憶にございません」
いつのころからか、教師に叱られた子の親が口にするようになった言葉。
 それは、「ウチの子が何をしたって言うんですか?」
☆子どもは親の背中を見て成長します。親が自覚をもってしっかりと!☆

【《頭の良さ》とは?】

 これは人によって解釈が分かれるところだと思います。学校の成績がよいことなのでしょうか?機転が利くことなのでしょうか?知識が豊富なことなのでしょうか?《頭が良い》と相手に思わせるテクニックに秀でている事でしょうか?
 学生時代は、テストで良い点を取りさえすれば、一般的には《頭が良い》と言われます。人間の持つ様々な能力の中で、記憶力と理解力がほんの少し秀でていれば、たとえ、他のことは並以下であっても《頭が良い》と言われます。困ったことに、日本では成績が良いことが、必要以上に高く評価されがちです。子どものころに周囲からチヤホヤされ勘違いをし、親までもが成績さえ良ければいい、という価値観を持っていると、はっきり言ってもう手に負えません。子どもをたしなめるどころか、子どもを助長させることになってしまうのではないでしょうか?
 大人になってから評価される《頭の良さ》は学生時代とは違います。学生時代は知識を身につけることが大切ですが、大人になってからはそれを如何に利用するかが問われます。自分自身で培った(努力)知識の豊富さは大事です。しかし現代はパソコン(今の時代ではスマホ)があります。知識情報は何の努力もなしに、と言えば語弊がありますが、機械に頼って知識を得ることが出来ます。私はアナログ人間ですので疑問に思います?
 学生時代の《頭が良さ》は先天的要素DNAによるところが大きな比重を占めていると思います。残念ながら事実だと思います。ところが普通の人、一般人はそうはいきません。やれどもやれども効果が上がらないことは日常茶飯事です。周囲に天才的な人間がいると、あまりの違い落ち込むことがあります。そんな思いを何度も繰り返して成長していくのではないでしょうか。能力の差の部分を努力・努力で補うのです。
 誰しも何事においても苦労せずに物事を達成することは出来ません。努力は絶対に必要不可欠です。
 そろばんの検定試験でも、1級一発合格と、3回目の挑戦で合格した生徒に技術の差はほとんどありません。要は最終的にどこまで到達出来たかということが重要なのです。
 相撲取りでも、身体が大きいという資質は有利に違いありませんが、絶対的な強さにはつながらないはずです。体力面でのハンディを技や工夫、敏捷性、その他の努力でカバーし《小よく大を制す》であるからこそ相撲は成り立つのです。
 世の中すべてのことが、先天的資質だけで価値が決まるとしたら、それで評価されるとしたら資質に恵まれない人間は悲惨でしょうし、何をやっても浮かばれない我が身の運命を恨むことでしょうし、努力が報われないことがはじめからわかっていたら、誰も努力なんてしないでしょうし、努力自体が意味をなさなくなってしまいます。で私は、
〔こつこつ努力を続けていればいつかは必ず報われる〕と思って生きています。

【幸福って何でしょう】

 幸福を定義づけることは難しいことです。
 何を幸福と感じるかは人それぞれの価値観によって違います。周囲から見ると悲惨な状況にあっても本人が幸福と感じれば幸福でしょうし、大変恵まれていながら常に不安を持っている人もいます。幸福は客観的視点ではなく主観で判断するものです。
 どんな人が幸福と感じているかを調査した研究によると、収入、性別、年齢などが違っていても、幸福と感じている人の割合にはほとんど差がないとのことです。また、自分が幸せであると答える人には外向的で楽観的であるという共通点があったそうです。
 ほとんどの人間は、精神的・物質的な充足感や、居心地の良さを求めて生きるものです。そうした生き方を求めるに当たり、すべての人間が生まれながらに平等かというと、決してそうではありません。受け継いだ遺伝子も、置かれた環境も大きく違うのです。与えられた運命とでもいうしかありません。
 そして、それぞれが異なるということは、善し悪しは別にして否応なしに優劣がつけられます。本来は、単に個性の違いなのですが、序列をつけたがる人間は多いのです。
 世の中には二人として同じ人間はいません。外見も中身もみな違います。人間の数だけ個性があるのです。だからこそ面白いのでしょう。すべての人間が外見も中身もまったく同じだったら・・・・・一体どうなるか見当もつきません。
 (何年か先にはクローン人間がでてくるかも知れませんが)
 様々な要素をもってそれぞれの人間が形成されているのですが、最も根本的で、しかも重要なことに限って、どんな努力をもってしても解決できないことが多いようです。
 生まれる国を選びましたか?生まれる時代を選びましたか?肌の色を選びましたか?答えはNOです。これらにはまったく本人の意思の入る余地はありません。親も選べなければ、性別も選べません(最近は??)。これらは与えられた状況を受け入れなくてはならないのです。
 では、外見や中身はどうでしょう。これも生まれながらにして授かったものがあり、どちらかと言えば選べない部類に入るでしょう。しかし、ここには努力のつけいるスキはありそうです。
 私のように(?)美しい容姿(?)に恵まれているというのは、大変すばらしい事であり、周囲に幸福感と心地よさを与えますが、それだけでは必ずしも本人の幸せに結びつくとは言い切れないでしょう。

【生徒への接し方】

 何十年も指導していると、相当変わっていると思われる生徒が入学しても、めったなことでは驚かなくなります。過去を振り返ると「そう言えば、こんな子もいたっけなぁ」と思い当たることがほとんどです。
 一方、指導を始めて期間が浅かったときは、ちょっと変わったタイプの子どもに出会うと「えっ?こんな子がいるの!」という驚きの連続でもありました。
 この違いこそが経験です。様々なタイプの子どもたちがいるのが当然であり、それぞれどのように接するかは、大変重要なことです。
 ファーストフード店で注文を受ける店員は、どんな客にもマニュアル通りの一通りの応対ですが、私のそろばん教室、しゅうじ教室はそうはいきません。
 生徒への接し方は、生徒の数だけ種類があるのでマニュアルなど作りようがないのです。頼りになるのは、「指導者としての」だけです。冒頭に記したように、指導経験が長いと、過去に指導した似たタイプの生徒と照らし合わせて対処できます。
 ある場面で、「叱る」か「叱らない」か、などの判断は、指導者サイドに決定権があります。叱った場合はどうなるか、叱らなかった場合はどうなるかを的確に予測し選択しているつもりです。さらに言えば、目先のことだけを考えると叱ることもないが、長期的視野に立てば叱っておいた方が良い、という場合もよくあります。
 新米指導者よりもベテラン指導者の方が経験が長い分だけ素晴らしいかというと、必ずしもそうではありません。一方、近年、ただ期間が長いだけという人も増えているのは確かだと思います。
 何事も、最初から経験豊富ということはあり得ません。スタートラインは平等です。
 初めて子どもが生まれたときは、すべての親が初心者であり例外はありません。皆、必死で戸惑いながら子育てをするのです。
 子育ての評価は、子ども自身が答えを出してくれるのではないでしょうか。

【前向きに進みましょう】

 平成26年もあと一カ月あまりで終わろうとしています。今年を振り返ってみて「自分が自分である」という実感があったでしょうか。
 誰でも一度や二度は、「何もかもうまくいかない」と落ち込んだという経験があると思われます。そんなときにお奨めしたいのが、自分本来と、自分の身体に素直になることです。私自身が最近常々思うようになってきました。
 人間の身体は不思議なもので、もともと前に向かって動くように出来ているらしいです。目も鼻も耳も前向きについていますし、二本の足もそうです。試に後ろ向きに走ってみると、普通の人なら、おそらく10メートルも行かないうちに転んでしまうでしょうね。
 実は「無理をしている」と感じるのは、身体は前を向いているのに、心が後ろ向きになっているからではないでしょうか。
 性格もあり難しいことだと思いますが、心も前向きになればスムーズに行くのも身体と心が正反対に進もうとすれば、どんなにがんばってもその場から一歩も動くことは出来ないでしょうし、自分自身にブレーキをかけているようなものではないでしょうか?
 人間はもともと、身体も心も、前向きに、積極的に、想像的に生きるように仕組まれているのではないでしょうか。
 苦しいときほど「今はしばし(少し)の暗がり」と考え、一歩でも二歩でも、こつこつ前へと向かって進んでゆきましょう。
 皆さんは、自分の夢、希望を持ち続け、実現に向かって、これからもこつこつと前に向かって進んで行ってください。その先には、苦しいこともあるでしょうが、必ず、楽しく幸せな人生が待っていることでしょう。
 そして自分に自信を持てる立派な大人になることを願っています。

前向きな言葉を使いましょう
 ほんの少しの言葉の違いで、物事をどのように捉(とら)え、どのように表現するかで、結果はまったく違うものになってしまします。
 言葉遣いは心遣いです。積極的に物事を捉え、そして、明るい言葉を使いましょう。
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